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幼稚園の環境デザインと教育(CRNアジア子ども学交流プログラム第1回国際会議講演録)

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「子どもにとっての環境」の再認識

環境とは何でしょうか?環境は、自然的要素と社会的要素、マクロとミクロ及び人間関係を含む、主体を囲むすべての外的要素を指します。簡潔に言えば、「己」以外の全ての物が環境と呼ばれています。人間の発達過程を、個人と環境との相互作用によって形成されるものと見ていた発達心理学者のブロンフェンブレンナー(Bronfenbrenner)は、1970~80年代に、環境を「人間の発達に影響を与える、或いは人間の影響を受けて変化するあらゆる事柄と条件を含む」と定義しました。では、人間の発達に影響を与えていない、或いは人間から影響を受けていない事柄や条件は環境と言えるのでしょうか。

一つ例を挙げましょう。お金持ちになったある若者が親孝行をしようと考えて、素敵なカフェを貸し切りにして両親を招待しました。最高レベルの内装が施されたカフェでは、ゆったりとした音楽が流れていて、サービスも行き届いています。それにもかかわらず、若者の両親はわずか数分でカフェを出てしまったのです。カフェの環境はどうだったか聞いた若者に対して、両親は、「何も見えなかった。何が何だか分からなくて、何も感じなかった」と答えました。音楽について聞かれた両親はまたも「聞こえなかった」と答えました。コーヒーについて聞かれると、「美味しくなかった」ときっぱり答えました。

自分たちに何の影響も与えない、カフェの内装や流れる音楽、提供されたコーヒーは、この両親にとっては当然、環境と認められません。弁証法的唯物論では、「認められるかどうかに関係なく、あらゆる物は客観的に存在している」と主張しています。しかし、ブロンフェンブレンナーはそう思いません。彼はやや唯心論的な傾向があって、「主体と切り離された環境は、果たして存在しているのか?確かに、物自体は存在しているが、人間に影響を与えたかどうかが何よりも重要だ」と考えます。若者の両親は後ほど、茶館 *に行ってお茶を飲んだり、おしゃべりをしたりして、楽しいひと時を過ごしました。彼らにとって、これこそが楽しみであり、良い環境として認められるものでもあります。したがって、客観的に存在する環境の主観的な一面について考察することは、まさに環境への再認識です。

ブロンフェンブレンナーの定義に基づけば、「子どもの外界に客観的に存在している」、「子どもの発達に影響を与える、或いは発達から影響を受ける」という二つの必要不可欠の条件が揃って、初めて子どもにとっての環境と言えることになります。

環境が与える子どもの発達への影響

幼稚園を訪ねると、おもちゃ、絵本、設備など、とても豊富で何でも揃っているところをよく見かけます。しかし、このような環境が子どもに影響を与えているのか、或いは、環境自体が子どもから影響を受けているのかを考える必要があります。就学前教育には、大きな役割が二つあります。一つは、それぞれの子どもの発達に応じて、教育を施すこと。これは学校教育と異なるポイントです。我々は子どもの自主性を尊重し、教育において子どもの「遊び」を強調します。「遊び」という活動は子どもの発達にもっとも順応するものだからです。子どもは、本来遊びの中で自然と発達していくものです。まるで畑に蒔かれた種がぐんぐん育ち、いずれ実を結ぶように。しかし、子どもたちが成長する過程で、我々が用意した環境がその発達に影響を与えたのかどうか、我々は知らないのです。

仮に環境が子どもの発達に影響を与えたとします。子どもは自らの経験を活かし、環境や物質であるモノに働きかけ、自分の満足を得ることで活動の意味を見出すでしょう。それは、子どもが自ら生み出した意味であり、彼らの遊びに果たしてどんな意味があるのか、実は大人には分からないのです。但し、子どもたちの意思を汲み取り、その特徴に合わせて成長をサポートするのは、大人の役目であり、一種の教育でもあります。

就学前教育のもう一つの役割は、環境を通じて子どもの発達に影響を与えることです。ただ好き放題遊ばせるのではなく、より高いレベルでの発達を促すことは我々教師の責任であり、我々が追い求めている教育の価値です。では、どうやって子どもの発達を促し、教育の目標を達成するべきでしょうか。但し、ここで言う教育の目標は、子どもの発達段階に即したものを意味しているわけではなく、教育者が設定したゴールを指しています。決して子どもの発達と教育を混同してはなりません。

我々教育者は環境に教育的意味を与えなければなりません。子どもの発達段階に応じて働きかけることができればベストですが、しかし子どもの発達に本当に必要なことは何か、我々にはわからないのです。教育者は、学ぶことができるものだけでなく、学ぶべきものについてもしっかり勉強しなければなりません。学ぶべきものとは、もちろん教育として取り入れる価値のあるものです。教育に役立つファクターがあってこそ、環境は本当の意味で子どもの発達を促すことができるようになります。教師として、環境のもつ意味を更に深く考え、同じ環境でも発達レベルの異なる子どもには異なる影響を与えうること、環境にそれぞれ異なった教育的意味を付与することができるということを理解する必要があります。例えば、年少クラスの子どもたちに、その年齢に最も相応しいと思う環境、年中・年長クラスの子どもたちにもそれぞれ異なる環境を提供しようと、教師たちは日々奮闘しています。しかし、環境デザインに余りにも多くの時間と労力を割くことになれば、教師たちは疲れ、他の問題を考える余裕が無くなってしまうのではないでしょうか。実際、子どもたちが成長すれば、彼らにとって環境の意味も変わってきます。これは、子どもの発達による環境の機能の変化と言われています。ですから、環境は客観的に存在するものであるというだけでなく、人間の成長に従って変化するものでもあります。

環境には、「客観性」と「主観性」の両面があります。環境は「己」以外の全ての物が含まれる「客観的な存在」で、「主観性」には二つの側面があります。一つは、違う子どもが同じもので遊んでも、逆に同じ子が違うもので遊ぶ場合も、それぞれの遊びの意味が異なるということです。子どもは自らの経験に基づいて遊びを展開し、遊びに意味をもたせます。同じものを食べても、消化できる子どもとできない子どもがいるようなものです。もう一つの側面は、大人が環境に教育的意味をもたせることです。教育は人間によって行われ、教育者なしでは教育は成り立ちません。異なるレベルの人には異なる需要があります。ではどうやってそれを満たすべきでしょうか。結局遊びや教育実践を通じて環境の価値を実現させることになるでしょう。ですから、教育が欠けていても、遊びが欠けていても、それは幼稚園とは言えません。

環境デザインに関して、多くの幼稚園では果たして何を見ているのか、何を考えているのか、いつも疑問に思っています。はっきりした目的意識が無く、他所で見た良い教具、良い環境をただ単純にまねするだけでは、より良い教育環境作りにはつながらないでしょう。その教具や環境がどんな役割を果たすのか、同じものでもモノと見なすべきかそれとも環境と見なすべきかをもっと深く考える必要があります。モノは至る所にありますが、環境は人間以外の全てのものが含まれる客観的存在で、人間に影響を与えながら人間の発達からも影響を受けているのです。

ついでにモンテッソーリメソッドについて話しましょう。モンテッソーリには、たくさんの教具があります。その教具自体には特別な意味がなく、他の教具と殆ど同じように見えます。しかし、モンテッソーリと後継者たちが、全ての教具にモンテッソーリメソッドが主張する教育的意味を与えたことで、これらの教具は環境へと変わりました。安易に批判する人もいますが、世界で3万から6万ぐらいモンテッソーリメソッドを実践している学校があることを考えると、それなりに世界の人々に受け入れられた理由はあるのではないでしょうか。

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おもちゃ遊びとおもちゃ教育

実際、幼稚園では、ただ二つのことをやるのです。ひとつは遊び、もう一つは教育です。百パーセントの遊び、若しくは百パーセントの教育、遊びの中に教育を取り入れる、教育の中に遊びを取り入れるなど活動のスタイルは色々あっても、子どもたちの活動が遊びと学びの組み合わせであることには変わりありません。従って、ある意味では、遊びと学びを組み合わせることが出来ますが、お互い相手に取って代わることは決してありません。なぜなら、遊ぶことと教えることは二つのまったく異なるものだからです。遊びは子どもたちが進んでやりたいことで、教えることは大人たちの立場でやろうとすることです。両者を組み合わせて実行することが出来ても、基本的には全く異なる概念であるはずです。教育もせず遊びばかりさせるのも、遊ばせずに教えてばかりいるのも賢明なやり方ではありません。例えば、私はいつも遊びを「米」に、教育を「緑豆」に例えます。米と緑豆を一緒に炊いても構いません。炊きあがりは恐らく米なのか緑豆なのかがはっきり分からなくなるかもしれませんが、米は緑豆になりませんし、逆に緑豆も米にはなりません。全く違うものです。ですから、遊びを教育に取り替えたり、教育を遊びに取り替えたりすることはしてはなりません。

環境という視点から見て、おもちゃを環境とみなすならば、純粋に遊びだけに使われるものは本当のおもちゃです。純粋に教えるために使われるものは教具であり、おもちゃではなくなります。しかし、私はあえて造語を作ってみたのです。主に遊びに使われ、その遊びの中で学ぶこともできるようなおもちゃを「玩教具」、主に教育に使われ、遊びの道具としても楽しめるようなおもちゃを「教玩具」としました。ここでは、おもちゃの価値の再創出、つまり客観的存在であるおもちゃに教育的意味を与え、おもちゃで遊ぶことを教育的意味のある活動に変えることについて、考える必要があります。

おもちゃでの遊び方に関して、子どもたちが自分で遊ぶようにさせる方法、遊びの中に教育を取り入れる、或いは教育の中に遊びを取り入れる方法、そして教育の目的だけに使う方法の三種類があります。それぞれ見てみましょう。実は、おもちゃメーカーが様々な原材料を使っておもちゃを作る過程はクリエイティブな工程であり、そのプロセスを経て木などの原材料がおもちゃへと変身し、また3元しか価値の無いものが10元の価値のものになるかもしれません。一方、教育という視点から見れば、おもちゃを教育的意味のあるものに変身させることは大変素晴らしいことで、再創造の過程でもあります。

おもちゃを教具に変えることは教育者による再創造であり、教育の目指す目標がはっきりしないと、再創造もなかなかうまく行きません。教育におもちゃを取り入れる場合には、子どもの趣味や需要について多くを考える必要がありません。しかし、おもちゃとして遊ばせると同時に教具としての役割も発揮してもらう場合には、やや複雑になります。遊ばせながら教える過程で、子どもたちにとっての意味が生まれ、教育者もおもちゃに教育的意味を与えるよう求められます。こうなると、教育的な目標の達成だけでなく、子どもたちの趣味や需要も考える必要があります。

おもちゃを研究開発、使用する過程で、子どもによる再創造の過程が往々にして見過ごされがちです。私たちは、教育者が非常に賢明であり、子どもたちが遊んでいる物についてなんでも知っていると考えてはいけません。実際、子どもはまるで難解な本のようです。彼らの心理が簡単に読み取れるのなら、心理学者は職を失うことになりかねません。おもちゃで遊んでいる子どもたちの心理を読み取ろうという考えは、間違っているのかもしれません。多くの専門家も、子どもの心理を読み取った上で最適な材料を用意し、教育を施すべきだと主張しています。しかし、これは可能でしょうか。子どものことを理解しようとして、彼らの心理を読み取ろうと試みても、なかなかできるものではありません。

とは言え、再創造の過程でおもちゃを「教玩具」、或いは「玩教具」に変えたら、教育者によっておもちゃに教育的意味が与えられることになります。しかも、教育の目標や子どもの発達段階に基づいて意味が与えられるため、遊びと教育も上手く組み合わせることができるようになります。教具に関しては、完全に教育の目標あるいは子どもの発達の規則に基づき教育者によって意味を与えられるため、教育者はどんな目的で取り入れたのか、子どもたちに何を与えたいのかをはっきりと把握する必要があります。それは「玩教具(教玩具)」と教具の大きな違いではないでしょうか。

最後にまとめをしたいと思います。教育的意味を与えるための基準の一つは教育の目標とされています。習近平氏は、2、3年前に、上海市の小学校一年生の教材から漢詩の科目が取り除かれたことを批判したことがあります。そういうものは、子どもが望むかどうかにかかわらず、小さい時から子どもたちに教えるべきものです。それこそ、教育のもつ意味です。

二つ目の基準は子どもの発達段階の諸基準です。例えば紐を通して動物たちをつなぐ、何の変哲もないおもちゃがあります。何の工夫もせず遊ばせたら、年少・年中・年長クラスの子は同じレベルで遊ぶかもしれません。しかし、教師の工夫次第で、色々な遊び方が見つかり、色々な意味があることに気づくはずです。ですから、モノの良し悪しよりも教師の腕の方がもっと大事だと思われます。学びに活かせるモノは沢山ありますが、教師がそれに気付き、実践に移せるかが問われています。

私は、幼稚園に溢れんばかりのモノを置くことを薦めません。教育的機能の無いモノは唯のモノで、置く必要は全くありません。世界的に優れた「おもちゃ」や「教具」は、様々な領域の専門家(教育学者、発達心理学者、デザイナー、教師など)が共同研究・制作をしたものです。これらを幼稚園のなかでどういかすか、模索すべきです。何よりも重要なのは教師がこれらの「おもちゃ」や「教具」をどのように選択するかです。それは決して容易いことではありません。


  • * 中国の古い喫茶店。庶民が集まり、お茶を飲んだり、世間話をしたりする。

※この記事は、CRNアジア子ども学交流プログラム第1回国際会議の講演録です。

筆者プロフィール
Jiaxiong_Zhu.jpg朱 家雄(華東師範大学名誉教授)

中国教育学会常務理事、学術委員、就学前教育専門委員会責任者。
華東師範大学名誉教授、博士課程指導教官、教育部基礎教育改革と発達研究所研究員、環太平洋地区就学前教育研究会(PECERA)理事、中国委員会主席。 主な研究テーマは、教育原理、子どもの発達と教育、文化生態学とカリキュラム、幼稚園カリキュラムなど。 主な著書に、『ピアジェ理論の教育における応用』、『幼稚園カリキュラム』(第11次5カ年計画教育部企画教材)、『幼稚園教育の活動計画と実施』(第11次5カ年計画、第12次5カ年計画教育部企画教材)、『多種多様な視野における就学前教育』などがある。その他、「上海市第二期カリキュラム改革教材」や、他の多くの省や市の教材編集に携わる。『早期の子どもの発達』、『現代の就学前教育の問題研究』 (CIEC 英国)、『欧州の就学前教育研究』、『環太平洋地区の就学前教育研究』、『子どもの保育教育政策の研究』(JCEP,韓国)、『幼児学報』など、多くの国際学術誌の国際編集委員を務める。
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