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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第5回-②「『親友とは?』中国の視点を入れるとまた違った面が見えるという話」

【姜】
山本先生と呉先生の対談内容を読みながら、中国朝鮮族の一人として自分がもっていた親友感覚は、漢民族のそれと違っていただろうか・・・と顧みてみました。小学校から高校まで中国国内の朝鮮族学校に通い、周りも朝鮮族ばかりで、ほとんど漢民族とかかわりがなかった私だったので、漢民族との文化差をはっきり感じ始めたのは大学時代からですが、友達感覚ではあまり目立った違いは感じなかったような気がします。それより二十代後半に日本に留学し、日本人の友達を作る際に「近すぎず遠すぎず」の距離感覚が把握できなくて苦労したのは覚えています。このような状況を前置きしたうえで、日本、韓国、中国の親友文化の違いに対する自分の「感覚」を整理してみました。

1 年齢・世代の差を超える親友

今回の議論ではあまりあげられませんでしたが、中国、日本、韓国の「親友になる条件」について話し合う際、「年齢や世代」要因をもいれたほうがいいのではと思いました。中国漢民族の「親友」感覚が、日本、韓国のどちらとも似ていない一つの特徴として、年齢や世代をあまり意識しないことが挙げられるのではと思っていたからです。私は日本や韓国の親友は「同年齢」少なくとも「同じ世代」を前提とするような気がするのです(違いますか?)。特に年齢や先輩後輩の順序で人間関係を縦に構築しがちな韓国では、年下の人が「親友」の範囲に年長者を入れるのは失礼だととらえられています。しかし、中国での「親友」は年齢差をあまり気にせず、老人と若者が親友になる場合を「忘年交」(「年を忘れた交友関係」の意味)と呼んだりもします。私自身はいまだにそれに慣れず、そのような状況に遭遇するたびに違和感を覚えるのですが、自分より5歳以上も年上の人を「親友」ととらえ、日本の「さん」などのような敬称を付けずに直接名前を呼び、敬語表現も使わない中国人(中国語には敬語自体せいぜい「您」(あなた)くらいですが、それも省く)も少なくありません。これは大陸の中で絶えず行われてきた人口移動による、異文化コミュニケーションだらけの生活を送ってきた中国人の生きる知恵だったのかもしれません。「意気投合を前提とした助け合い」が成立すれば、年齢など別の条件はあまり気にしなかったのでしょう。これを押さえたうえで次の内容に入ると少し説明がしやすいかもしれません。

2 「親友」のためにできること、「親友」にされていいこと

今回のアンケート調査の中で中国人学生が答えた「親友」のためにできること、「親友」にしてもらったことの例をみると、いくつかの「親友のためどこまでできるか」に対する中国人学生の考え方が見えてきます。

◆お金の絡む助け合い
中国人学生が思う「親友のためにできること」の中で金銭的な絡みはとても重要な内容とされています。「クラスの中で経済的に貧しい友達がいて、お母さんの病院代で困っていたが、もう一人の友達がそれを知り、自分の奨学金をもらう機会を彼に譲った。」「ノートや小銭を借りたりする。」「お金がないとき友達が一万元(約17万円)を貸してくれた。」「お金を借りる。」「ある人の父親が末期癌になったことをその親友が聞いて、10万元(約170万円)を医療費として出してくれた。お金を返せとも言わず、たびたび病院に見舞いに行った。」「自分も経済的に余裕がなかったにもかかわらず、友達にお金を貸してあげた。後で知ったことだが、自分の状況はその友達よりももっと悪かった。」「金銭、友情、資源。」などの回答からもわかるように、金銭面での助け合いはかなり日常的に行われています。さらにその考え方には「お金を貸す際、戻ってこないことを念頭に置くべき」という原則があって、返してくれなくても崩れない関係なら本当の親友とされます。もちろんそこで本当に悪い人に騙され、大金を貸したまま長いあいだ返されなかったりしてトラブルになったりするケースもありますが、だからと言って親友関係の構造自体が変わるわけではありません。すなわち、中国人の親友関係でお金が絡むことはしばしばあります。またその絡むことによるトラブルを避けるためお金のやりとりをしたがらない行動は、「親友」関係を築く上であまりいいとは言えない行動ととらえられています。これを書いているうちにふと思い出しましたが、去年私の数十年来の親友が家を買う際、私はお金を(かなりの大金を^^)貸しました。彼女はそれを返済しようとしたとき、もう一人の親友が家を買おうとしているのにお金が足りなくて困っていることを知り、私に返済する予定だったお金をその親友に貸してあげたのです。その後、私にその事情を知らせ「お金を返すのをもう一年延ばすから」と言われたことがあります。彼女にとっても私にとっても、これは当たり前のことでした。

それに比べ、「『お金』が絡むと話はべつになると思うが、」と答えた日本人学生の「心理的な面で支え合っている存在であると思う。」という親友の位置づけが、中国との差をはっきり表しているような気がして非常に面白かったです。また韓国人学生の回答は中国人学生のものとかなり似ていて、はっきりとした違いがすぐには思いつきませんでした。

◆自分の利益を損なってまでの助け合い
「親友のためにどこまでできる?」という問いには、二つの前提があると思います。「自分の利益を損なってまで友達を助ける」と「自分の利益が損なわれない範囲で助ける」ですが、中国人学生の回答では様々な事例が「自分が損をしてまで助ける」ところに集中していて、少なくともこれらの回答者は、それを親友としてすべき行動と認識していることがわかります。「期末テストで時間がとても足りない時なのに、親友が私を病院に連れて行ってくれた。」「いつも自分のことを後回しにしてまで友達を助ける。」「自分の時間を犠牲にして急用のある人のために資料を探してあげた(一時間くらい)。」「実習先の学校が配置されるとき、ある女子学生が一人だけ遠い学校に配置された。男子学生のWはこのことを知り、自ら彼女と実習先の学校を交換した。」「(クラブ活動?就職活動?)望んでいる理想の職に友達を就かせるために、自分はこの職を希望するのをあきらめ、好きではない別の職を選んだ。」「自分の身を捨て他人を助ける。」「自分の大事なものをなくし落ち込んでいたら、親友が自分のもっていたものを半分分けてくれた。とても貴重で、彼も大事にしていたものだったのに。」これらの事例には、期末テストの勉強の時間を割いて友達を助ける「軽い犠牲」から、大事な職を譲る「重い犠牲」まであります。「軽い犠牲」で助けてもらった場合はそんなに気にしなくていいかもしれませんが、「重い犠牲」で助けられた場合、中国の人は恩返しを心の中に刻んでおく必要があります。それは、日本の学生からすると重くて敬遠したいことかもしれません。

友達関係と関連する諺に「为朋友两肋插刀(直訳:友のためには両脇に刀を突きさす)」「滴水之恩当涌泉相报(直訳:雨水の恩に湧き水で報いる)」がありますが、「友達のためなら自分の重大な利益を失っても(命に及んでも)構わない」という考え方と、助けられた側の「恩返しを決して忘れない」ことは、個人主義が拡大している現代社会でも中国人の考え方の根底に潜んでいることがわかります。

日本の学生からも「期限までにやらないといけないことを、時間をつぶし徹夜して手伝った。」などの「軽い犠牲」はあるものの、職を譲ったり、実習先の学校を代わってくれたりなど「負担になるほど重い」ような事例はあまり見られず、その温度差がはっきりでているのがわかります。

◆規則違反の助け合い
ここまでくると、友達のためにできることの限界がどこまでかが気になると思いますが、中国人学生の回答の中には学校の規則に違反してまで親友を助ける事例がいくつか見られました。例えば「親友のために先生に嘘をつく。」「私が遊んでいるとき親友が見張りをしてくれた。(これはどんな遊びか気になるところですが)」「入院したとき、友達が学校を休んで私の面倒をみてくれた。」「期末テストをあきらめて、気分が悪くてテストを途中でやめていなくなった親友を探しにいった」「私の宿題をやってくれた。」など、社会のルールよりは親友との関係を優先しているのがわかります。親友がすることなら全部認める、親友のために社会ルールを違反しても大目に見るべきという物差しで社会のルールを見る傾向があり、そこからは、中国社会の不正腐敗の根につながる論理をも見出すことができるでしょう。

◆対価を求めない助け合い
いったん親友になったらば、親友のためにやったことは、何かの対価を求めたり、あるいは相手に何かを求めてやったことではないというのが前提としてあります。数人の学生がこれを例に挙げましたが、「今まで友達を助けたことは、私からすると犠牲ではなく、友達のために自分の利益をあきらめただけのことである。」「考えたことがあまりない。自分はあまり友達のために大きな犠牲になることはしないと思う。可能な範囲で他人を助けるが、自分の利益を極端に犠牲にすることはない。」「他人を助けたけど、犠牲となったとは言えない。」「親友のためにしたことだから犠牲だとは言わない。自分が喜んでやったことだ。」これらの回答からもわかるようにやはり「相手のためだけに助ける」という考え方が親友関係の前提としてあります。

ここまできて、山本先生、呉先生のおっしゃる「熱い人間関係」VS「近すぎず遠すぎず」の軸に当てはめてみると中国はどちらかというと韓国に近いのかなと思われます。しかし、そうすると今度は中国と韓国の差をどのようにして浮き彫りにするかという課題が残ってくると思います。例えば年齢や先輩後輩などの縦の関係、あるいはプライバシーのどこまで入り込めるかなどの問題ですね。さらに話題を設定し、これらの差異を浮き彫りにした話ができればと期待しています。

【呉】
姜さんの原稿を読みながら、「熱い人間関係」VS「近すぎず遠すぎず」は、そのまま「韓国と中国」VS「日本」に単純化して考えることができると思いました。

日本と対比させた場合は同じ範疇に入る韓国と中国ですが、姜さんの原稿から考えてみると、「年齢・世代の差を超える親友」という部分は異なるように感じ、「『親友』のためにできること、『親友』にされていいこと」は似ているように感じます。

韓国社会はお互いの呼び方自体も、会話に登場する人たちの年齢や地位の上下によってとても細かく区分されている社会です。1歳でも上の人なら、実の兄弟姉妹でなくても「お姉さん」「お兄さん」と呼ぶ社会です。従って、実際には親友関係のような過ごし方をしていたとしても、歳が離れている場合は「友達」「親友」という表現・名称は気楽に使えないのが韓国の実情だと思います。最近はだんだん多様さが認められる社会に変化しつつあるので、「10歳以上の差があるにも関わらず親旧(チング・長く親しい友人の意)関係」であるという芸能人のニュースなどは見られますが、あくまでも稀なケースとして紹介されていると思います。

私個人のことで考えてみると、私は夫と11歳の差があります。もともとは先輩だったり上司だったりしても、結婚する関係というのは独立した二人が平等な立場で結婚するわけですから、夫だけど、やはり一番近い親友ということもできますし、私は11歳上の夫を普通に名前で呼んでいて、「上」を意味する呼び方はせず、二人が使うことばのレベルも敬語などではなく平常語で同じです。でも、これはやはりまだ稀なケースかな^^と思います。

姜さんが書いた中国における「親友のためにできること」「親友にされていいこと」や「お金が絡む助け」等を読みましたが、まったく違和感がありませんでした。今扱っている調査の結果だけでは根拠まではっきり出せませんが、あえて韓国と中国の「差」を探すなら「重い援助をする頻度」や「重さの程度」かもしれません。重さの程度や頻度が韓国より中国の方がもう少し高いかもしれないと感じました。

私が日本に留学中の修士の大学院生だったころ(1990年代)を思い出します。仕送りの時間差で無一文になったことを知った韓国人の友達が、何も言わずに5,000円と国際テレホンカードを入れた封筒をくれました。博士課程の院生の頃は、寮費・生活費が足りず困ったとき、自分から友達にお願いして5万円や10万円を借りたことがあります。約6年間の中で助けられたことが3回です。時期が異なるのでそれぞれ違う韓国人の友達ですが、全員就職していない院生たちでした。

こういう事を日本人の方が読んで、院生の間で普通にあり得ることだと感じるでしょうか、あるいは少し重たいと感じるでしょうか。「困った友達を助けること」への称賛より、むしろ「無一文になること」自体を「準備不足」や「無計画」だとして、批判の声が強く聞こえてくるかもしれないとも思われます。一方では「助け合いの文脈」が強調され、もう一方では「自分で自分の行動に責任をもつ文脈」が強調されるという、「図と地の反転」を感じます。

先日、日本の大学の授業で、親友の条件とは何かということで少し話し合いがあったのですが、「沈黙が苦にならない」「なんでも話せる」「相談したいと思ったとき思い浮かぶ人」などが順に多く、総合的に表現すると「気を使わない」という「犠牲と感じない心理的交流」が、日本人の大学生の間ではとても大事なことなのかもしれないと思いました。

【山本】
在外研修で中国に10か月滞在したころはまだ中国内の漢民族と朝鮮族の違いがよく分かりませんでした。もちろん言葉や食べ物は違うのですが、人間関係ということになると、姜さんや呉さんが強調するように、どちらも非常に熱い=篤い、という感じがして区別がつかなかったのですね。

今ではずいぶん違いがあるようにも感じているのですが、それでも今回の「親友とは何か」という問いへの答えのレベルでは、それほど大きな違いは見られないようです。ただ、姜さんは朝鮮族中国人として漢民族社会に生きてきた経験から、今回の調査には表れていない違いとして、年齢を超えた「親友」ということについて、議論をされました。

さて、日本ではどうでしょうか?私の漠然とした印象では「親友」という言葉を特に違和感なく使える範囲は、年齢の差で数年かもしれません。ただ、それは大人になっての話で、子どもの頃はやはり同学年に限られたように思います。考えてみると、友達関係は同一学年という横の関係にかなり限定されていましたね。

そこでひとつ思い出したのですが、ここで【比較から考える日中の教育と子育て】という連載を書かれている渡辺忠温さんたちの研究で、先輩後輩の間でお互いにどう気遣いあうか、ということの日中差を分析したものがありました。「慌てて服を裏返しに着て走っている先輩を見て、後輩が挨拶をしなかった」という仮想のエピソードをどう理解するかについての調査データの分析です。

日中の高校生で比較すると、「挨拶は必ずすべき」「知り合いだったら(先輩後輩間でも)あいさつをする」というところは日中で同じ意見でした。ところがその「挨拶すべき相手」の範囲を見ると、中国では「知り合いかどうか、親しいかどうか」が中心で、先輩後輩関係も、親しさがメインの友好的で平等な関係のイメージが強いようでした。これに対して日本では先輩は怖く、あこがれや尊敬の対象でもあり、服従や礼儀正しさが求められる、という上下関係のイメージが強いというかなりはっきりした傾向の違いがみられたのですね。

年齢階梯というのは、社会の秩序を作る一つの方法で、儒教でも「長幼の序」という言葉で強調されていますが、ところが今も儒教的感覚が根強く社会を支配しているように感じられる本場中国ではむしろ年齢に縛られない友達関係がよく見られ、逆に儒教は実質的なところではあまり社会に浸透しなかった(具体的には「礼」の実践や「科挙」のシステム、「孝」の思想が本来の儒教的な意味では機能しなかったことなど)日本でむしろ「長幼の序」が子どもたちの友達関係を規定しているというのは面白いです。

理屈を言うと、社会人類学的に見れば中根千枝さんの「タテ社会(日本)とヨコ社会(中国など)」の違いがここでもよく表れていると言えるのかもしれませんが、そこに韓国を入れるとどうなるのかも興味深いことと思いました。またこの中国の「平等」感覚には、形の上ではむしろアメリカ的なフラットな社会に近いところも感じるのですね。心理学の東洋さんは日米の感覚の違いが生まれる原因として、社会の流動性が高い(米)か低い(日)かがあるのではないかと論じられていましたが、姜さんも指摘されていたように、中国社会は流動性が極めて高いので、そのことが影響しているのかもしれません。

改めて整理してみると、「熱い人間関係」VS「近すぎず遠すぎず」という軸で見ると「中国≧韓国」VS「日本」という対比になり、「年齢にかかわらない」VS「同年齢」という軸で見ると今度は「中国」VS「日本≦韓国」という対比になるようにも見えます。

そういうことを考えても、たとえばお互いの違いを「経済発展」のレベルで単純に一列に並べて見たり、「個人主義VS集団主義」のように二項対立的に考えたりしても、お互いのリアルな姿は見えてこないよなあと、そんなことを改めて感じます。文化間の相互理解は、そういう単純な物差しを人工的に作って相手を決めつけるのとは違う形で、ある意味でもっと素朴なところからお互いのかかわり方のズレ、意味の世界のズレを探りつつ進めていくことが必要なのではないでしょうか。

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筆者プロフィール

Yamamoto_Toshiya.jpg

山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。子どもとお金研究会代表。日本質的心理学会元理事・編集委員。法と心理学会元常任理事・編集委員長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)


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姜英敏 Jiang Yingmin(中国:教育学)

教育学博士。北京師範大学国際比較教育研究所副研究員、副教授。1988年~1992年に北京師範大学教育学部を卒業。1992~1994年、遼寧省朝鮮族師範学校の教師を経て、北京師範大学国際と比較教育研究所で修士号、博士号を取得し、当所の講師として務め、現在は副教授として研究・教育に携わっている。在学期間中、1997年~1999年日本鳴門教育大学に留学。また2003年~2005年はポスドクとして、日本の筑波大学に留学し、研究活動を行い、さらに中央大学や早稲田大学、青山学院大学の教員と積極的に日中の学生間の交流授業を進めてきた。日本と韓国、中国を行き来して、実際の授業を観察した道徳教育の国際共同比較研究。


Oh_SeonAh.jpg

呉宣児 Oh Seon Ah(韓国:心理学)

現在、共愛学園前橋国際大学・教授。博士(人間環境学)。韓国済州島生まれ育ち。韓国で大学卒業後、一般事務職を経て、1992年留学のため来日。1995年お茶の水女子大学大学院家政学研究科修士課程(児童学専攻)修了、2000年九州大学大学院人間環境学研究科博士課程修了(都市共生デザイン学専攻)。その後、日本学術振興会外国人特別研究員、九州大学教育学部助手を経て、2004年から共愛学園前橋国際大学に赴任。文化心理学・発達心理学・環境心理学の分野の研究・教育活動をしている。単著「語りから見る原風景―心理学からのアプローチ」(2001) 萌文社、共著「「大人になること」のレッスンー「親になること」と「共生」」(2013) 上毛新聞社、ほか多数。前橋市の地域づくり推進活動のアドバイザーや地域の小学校で絵本読み聞かせボランティア活動等もしている。

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