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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】 第5回-①「親友とは?」

山本 登志哉(日本:心理学)
姜 英敏 (中国:教育学)
呉 宣児(韓国:心理学)

2017年10月20日掲載

【呉】
前回のやりとりからずいぶん時間が過ぎました。前回は「困っているときにどうする?」ということで、友達が困っているときの日韓中の対応の共通点や相違点をみながら文化について考えてみました。

それに続いて、今回は「親友とはどのような存在だと思いますか」という質問に対する韓国の大学生49人の回答を参考にしながら友達・親友について考えてみたいと思います。回答する時に、具体的な自分の親友を思い浮かべて書いたのか、理想的な様子について答えたのかはさだかではありませんが、回答から親友についてのイメージを表すキーワードがいくつか浮かび上がってきました。いくつかを紹介してみます。

最も多く書かれた内容をいくつかに絞ってみると①「共感的で通じ合う関係」、②「助け合う関係・頼れる関係」、③「打算的でない関係・負担に思わない関係」、④「いつも一緒に居られる関係」ということばで要約できると思います。その具体的な内容は以下のようなものです。

①共感的で通じ合う関係
「心を開いて悩みが言える/悩みを打ち明けることができ、相談に乗ってくれて、私のすべてをわかってくれる存在/私の状況を理解し共感してくれる関係/さまざまな感情を正直に言っても厭わず聞いてくれて、思ったことを正直に言ってくれる存在/喜びも悲しみも分け合って、それについて本音で共感してくれる存在」など

②助け合う関係・頼れる関係
「私がお金もちであろうが、乞食であろうが、背景を見ずに確実な忠告と称賛をしてくれる数少ない宝物/私が大変な時または友達が大変な時、互いに力になれる存在/困難なときに頼りになってくれる存在/私の肩の荷を一緒に背負ってくれる人/家族のように頼りになる木のような存在/力になってくれる存在」など

③打算的でない関係・負担に思わない関係
「互いに計算的ではなく居られる/ある程度助けたり助けられたりしても負担を感じない関係/助けが必要なときにも負担に思わずにいられる関係/私にとって大切なものを譲れる存在」など

④いつも一緒に居られる関係
「目的をもたずに気楽に会える人/一緒にいたいと思うとき一緒にいてくれる人/いつでも突然の連絡にも嬉しく感じる存在/いないと悲しくなりそうな存在/いつも一緒にいてくれる人/長いあいだ会えなくても会った時には昨日会ったように感じられる人」など

以上に紹介したように、少し抽象的に表現すると、どの国でも同じように表現されるのかもしれませんね。①②③④の内容を読む読者は、その内容から韓国的と感じる部分があるのでしょうか、あるいは、日本でも・中国でも同じだと感じるでしょうか。

日本語の「友達」を韓国語に翻訳するときもっともよく使われる表現は「親旧(チング)」ですが、それは「長く親しい仲の人」という意味になります。親旧ということばにすでに「長い」「親しい」が入っているので、韓国で普通に使っている親旧は日本の親友に近いかもしれません(親旧=親友>友達)。

韓国の洪守姬(Hong shu hui)という詩人が書いた「親旧」という詩を翻訳して紹介してみます。詩の形で表現されていることばは、上で紹介した調査への回答のことばと通じている部分があるように思います。

長い沈黙の時を経ても
いつもそこにいる
親旧という名の前には
少しも歳月が流れず
歳月が恥ずかしがって
顔を赤らめて隠れてしまう
歳月を経ても
自分が歳をとったのを知らない
話しかけるのに時を選ぶこともない
体面も偽善も要らない
相手の失敗を明るく笑って誰も傷つかない
愛情はあってもいつもつながっている必要がない
愛するが嫉妬する理由もない
ただ望むことは
どこにいてもあなたが充実した生を生きるように
心が虚しさを感じるとき
友がいることを思い起こすように
神さまは私たちに高貴なプレゼントをくれたね
友情の木の枝に染み込んだ
はばたく美しい鳥をくれたね
出典「이 그리움을 그대에게 보낸다(この恋しさをあなたに送る)」(図書出版 ハンソム,2007年)筆者訳

さて、この詩や調査協力者のことばから、「韓国的」な何かを感じますか、あるいは「日本と一緒だ」と感じますか。

【山本】
呉さんが書かれているように、①~④のように一般化して書くと、そんなに違いがないようにも見えます。たぶんそれを否定する人は日本にもほとんどいないのではないかという気がします。

これは文化比較ではよくおこることだと思いますが、話を抽象的なところにもっていくと、そんなに違いはなくなる。たとえば「友達は大事ですか?」とか質問すれば、「大事ではない」と答える人はまずいないでしょう。ところが「友達を大事にするにはどうしたらいいですか?」と聞くと、答えは人によっても時代によっても社会によっても全然違ったりしてくる、というようなことをよく経験します。「総論賛成、各論反対」みたいな?(笑)

そこで、少し具体的に書かれた内容を日本・関東地方の大学生38名の回答(男子9名、女子29名)と比べて見てみました。

①共感的で通じ合う関係
「自分のすべての面を理解して、それを認め合うことができている関係だと思う」「言葉に出さなくても心が通い合う存在。」「仲が良いけど、何も言わなくてもいい、通じる」「心を開いて話せる。」「何でも話せる」「何でも話せる人」

②助け合う関係・頼れる関係
「『お金』が絡むと話はべつになると思うが、心理的な面で支え合っている存在であると思う。」「相手が困っている時に相手のことを考えて対応できる人。」「困った時は助け合い、」「相手のことを思って行動できる。」「つらいときに、会いたい、話したいと思う人。」

③打算的でない関係・負担に思わない関係
「損得を考えずに接することができ、」「損得関係なしに助け合える存在。」

④いつも一緒に居られる関係
「一緒にいて楽しい」「空気のようで、一緒にいて自分が自分でいられる居心地がいい人。」

こんな感じで呉さんの分類に合わせて書いてみると、それぞれに当てはまる回答が見つかります。この範囲ではそんなに違いがなさそうにも思えますよね。ところが、もう少し読んでみるとやはり印象が異なるんです。とりあえず二つ気づきます。

第一に、お金の話の違い。これは私たちの「お小遣い研究」でも繰り返し問題になったことですが、日本の回答にこういうのがあります。「『お金』が絡むと話はべつになると思うが,心理的な面で支え合っている存在であると思う。損得関係なしに助け合える存在。」

損得なしに助け合えると言いつつ、お金は別で、心理的な支え合いに限定されるわけですね。例としては一つだけですが、この感覚はとてもよく実情を反映しているように感じて面白いです。

韓国の答えの中でお金に言及するものは「私が金持ちでも乞食でも背景を見ず、確実な忠告や賞賛をしてくれることができる数少ない宝物。」くらいしか見当たりません。でもこれは「お金が絡んではいけない」ということとは全然違います。

この問題を別の質問項目「あなた自身またはあなたの周囲の人が友達のために払った支出や犠牲の例は?」と「あなたが友達から助けられた例としてどのようなことを思いつきますか?」と比べてみると、もっとはっきりします。

韓国では以下のように、お金が絡んだ援助が目白押しに出てきます。

「大学生の時、体育大会で後輩が指を骨折する事故が発生し、病院に一緒に行って診断を受けてみたら、後輩が払えないほどの費用が発生したので、その費用のすべてを自分が支払った。」「金銭的に、精神的に」「金銭的援助、話をしてあげるなど」「友達の代わりに金銭的な支出をする」「友達が小遣いをもらっていないので、お金をあげたり、献血証をあげたり。」「慰めながら、ごはんを買ってあげる。」「旅行に行く前、友達が財布を無くしたので、お金を貸してあげた。」「困っていると聞いて、お金を貸して、でも返してもらえなかった。」「学費不足の友達に金銭的な援助をした」「友達の息子が病院を退院するとき、急にお金が必要となったので、返してもらわないつもりで貸してあげた。」「一緒に過ごすこと、金銭的支出。」「母との旅行を準備するとき、一度買った航空券を取り消して、買い直さないといけない状況が発生し、当時私の口座の現金が足りなくなってしまった(航空会社の規定上、当日の払い戻しができず、1週間後に払い戻しがされる状況)。しかし、払い戻しされるのを待っていたら航空券が売り切れてしまうかもしれない状況で困っており、友達に電話で事情を説明したところ、本人の口座には十分な残高がないから、その友達の彼氏に必要な額のお金を借りて私に貸してくれた。」「慰労してくれたり、金銭的、体力的に大変なとき助けてくれる。」「一時一人暮らしをするとき、家になんにもなかったが、親しい姉さん(先輩)が生活必需品やおかずなどを買ってくれた。」

結構いろんなシチュエーションがあるようですが、友達に貸すお金がないときに、自分の彼氏にまで頼んで用立てたという話もあるなど、なかなか本腰が入っている感じです。

これに対して日本の回答からは次の三例だけで、しかも内容はわりあいささやかな印象があります。

「仲の良い信頼している友達にお金を貸す(その場で使うための)」「お金を忘れた時に買ってくれた」「時間やお金を使って、少しでも楽になるように気をつかってくれた。」

もう一つ、これは逆に日本に目立ち、韓国にはほとんど見られない回答なのですが、親友とは何かと言うと「気を使わなくて済む人」という答えがあります。あるいは適度に距離があることが大事だという答え方も目につきます。

「近すぎず遠すぎず。空気のようで、一緒にいて自分が自分でいられる居心地がいい人。」「気を遣わない、気づいたときには隣にいる、他愛もない会話をする」「おたがいにきゅうくつだと感じない、つかずはなれずの関係」「気をつかわない、いつでも自然体でいられる家族のような関係。」

これを見てとても面白く感じたのですが、親友というのは、自分が偽りなく自分らしくいられる関係という点では、たぶん日韓で差はないのだろうと思います。ところが日本は「KY」がとても非難される社会です。相手にいろいろと気を遣えない人はとても生きづらい社会で、だからアスペルガーの人など、定型社会のコミュニケーションや対人関係で苦労されている人にとってはとても厳しい社会でもあります。でも、本音のところはみんなそれで疲れているんですね。気を遣いすぎて。だからこういう「気を遣わなくてもいい」ということが、ことさらに強調されやすくなるんじゃないでしょうか。

韓国はそれに対してお互いばんばん感情をぶつけ合う場面が多い印象があるのですが、そのあたりの違いがこういうところにも出ているのかもと思ったりします。どうでしょう?

【呉】
なるほど~。言われてみるとそうだなと思えたので、もう一度「親友とは?」という質問への韓国の回答を読んでみました。「気を遣わなくても良い存在」という表現をした人は一人もいませんでした。もちろん、「目的をもたずにいつも楽に居られる」などに、内容としては含まれていると思いますが、「相手に気を遣う」表現がないというのは、例えば実際にはそういうことがたびたびあっても、それを常に意識化する「規範化」「文化化」の状態が異なるということだろうと思います。この日韓の差を少なくとも頭で・知識で理解することがないと、日韓の友達関係にはいつかは意図しない誤解やトラブルが起こりえると思いますね。

上で紹介されている韓国におけるお金が絡んだ助け方は、気を遣う範疇に入らず自然に当たり前に行う行動であるけれども、日本人の感覚からするととても気を遣う・遣われる行動になってしまうので、「友達のため」という目的は同じなのに、どのように関わるかという行動・態度の面が異なるわけですね。

しかし、「どのように」が分からないからという理由で、トラブルが起こることを怖れて関わらないのではなく、少々の誤解やトラブルがあっても、その都度ぶつかりつつ対話しつつ理解していけるので、関わり続けることがさらに大事なのだろうと思うのも、また私の感覚(韓国流)かもしれません。

【山本】
ここで一つ質問なんですが、韓ドラとかを見ていると、人に自分の思いをぶつけることについて、私の感覚では矛盾したイメージになって、よくわからないところがあります。というのは、一方では韓国の方は感情をありのままに出してつきあうイメージがあります。それは喜びなどのプラスの感情ももちろんですが、それだけではなくて、日本では表面に出すことをかなり避けるような、相手の人への怒りとか妬みとか、あるいは憎しみまでも含めて、いわゆる負の感情なんかもあまり隠さずにストレートにぶつける場面によく出会ってびっくりするんですね。

ということで、韓国の人は相手を気遣って自分を隠すことがないのか、と思うと、今度は日本ではそこは話すんじゃないかと思えるところで、逆に徹底して隠す場面にも出会います。「冬のソナタ」でもそうでしたが、「ここで一言本当のことを言えば、誤解が解けるじゃないか」と思えるところでじっと耐えて何も言わない。相手が誤解するだろうと思っていても言わなかったりします。これ、親友とか家族とか、特に深い関係でそういうことが多いような気もするんですね。たぶん気遣いの一種なんだとは思うんですが。

前にも別のところでそのことを少し書きましたが、ここがほんとにまだぴんと来ないんです。日本でも相手に心配をかけないようにあえて隠す、というようなことはもちろんあるんですが、なんか違うんですね。でもどこがどう違うのかがよくわからない。

呉さんはこの辺について、なにか感じられていることとかありますか?

【呉】
おっしゃるとおり、韓国では喜びの感情も負の感情も隠さず表出する場面も多く見られる一方、誤解を受けるくらいになっても相手のために秘密を守ったり言わなかったりすることもよくあると思います。「どういう時にどういう部分で相手のために気を遣い感情を表出しないのか」ということは、いまここで簡単に言うことはできませんが、日ごろの日常的なできごとの範疇に入る内容なら気遣うことなしに言うことがあるけど、その内容がとても非日常的なことで、相手の人生に大きな影響や大きなトラブルをもたらしそうな内容の場合だと、表出しない選択肢をとることも多いと思います。しかしその選択があまり効果的でないと判断したら、やっぱり表出すると思います。この題材はまた別の機会に取り上げられたらと思います。

【山本】
なるほど。そう説明されるとなんとなくわかる感じがしてきます。たしかに韓ドラとか見ているとそんな感じですね。

ということで、今回のみなさんの回答を見ても、親友は自分にとって大事な人で自分を支えてくれる存在、みたいなところでは日本も韓国も変わりはないんだけど、じゃあどうやって支えるのか、というところの具体的な中身が結構違うらしいということが見えてきましたね。

韓国ではお金のような物質的なことであろうと、精神的なことであろうと、積極的に相手に関わって支えようとする姿が見えるし、その時、お互いに負担をかけることについて日本の感覚よりはあまりこだわらないような印象があります。そして日本的な感覚から見るとすごく「熱い」、韓ドラでもよく見るような「情熱的(あるいはしつこめの?(笑))」関係が作られている。それが相手に対する深い思いや思いやりになっていて、その部分がないと、親友にはならない感じがありますね。

それに対して日本は気持ちのつながりは大事にするんだけど、お金が絡むような問題はできるだけ避けようとする傾向がありそうです。「近すぎず遠すぎず。空気のようで、一緒にいて自分が自分でいられる居心地がいい人。」という回答によく表れているような気がするんですが、「近すぎ」は避ける感覚があるような気がします。

また「おもてなし」の文化と言われるくらいに外では相手に気を遣い、その結果悪く言えば相手に振り回されることにもなりますから、「自分が自分でいられる居心地がいい」状態は作りにくい。だから大事な友達、親友には、家族のように気遣わなくて済む人を求めるということになるのでしょう。

ということは、ここで「自分でいられる」ってどういうことなのか、ということについて、日本と韓国で違いがある可能性が感じられてきます。つまり、韓国の熱い人間関係下では日本人は「自分でいられない」感覚になってしまいやすい。それより距離をとって「近すぎず遠すぎず」の微妙な間合いを作ることで「自分」が成り立つわけです。これに対して韓国の方は「熱い人間関係」によってこそ自分が支えられているような感じがします。

ただし、「熱い人間関係」だから「すべてをわかってくれる存在」としてすべてを共有しようとするのかというと、そんなことはなくて、深刻な問題について相手のためだと思えばたとえ自分が誤解されても(つまり自分が犠牲を払っても)秘密を守ったりということもある。そんな感じがしました。

このあたりの「熱い人間関係」VS「近すぎず遠すぎず」の対比は、私の経験では日本人と中国漢民族の人の間でもあるような感じがしているのですが、ただ韓国人や中国朝鮮族の人と漢民族ともまた違いがあるようなので、そこがなんなのかもいずれ考えてみたいと思います。


* 韓国では献血をすると、献血証がもらえます。何度もする人は何枚も持っているのですが、その献血証を寄付することがあります。大きい病気で輸血を受ける患者は献血証を集めるとある程度費用を節約して輸血を受けることができます。なので、友達の家族に輸血を必要とする人がいると、みんなで献血証を集めてあげたりします。私も友達の母が病気の時に家中の献血証をあつめてあげたことがあります。(呉)

<自由記述欄>
(自由記述については次回以降、内容を紹介させていただくことがあります。もしお望みでない方は、記入時にその旨をお書き下さい。またご回答についての著作権はCRNに移転するもの<CRN掲載のほか、書籍への掲載など、自由に利用することができます>とさせていただきますので、ご了解のほど、よろしくお願いいたします。)

筆者プロフィール

Yamamoto_Toshiya.jpg

山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。子どもとお金研究会代表。日本質的心理学会元理事・編集委員。法と心理学会元常任理事・編集委員長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)


Jiang_Yingmin.jpg

姜英敏 Jiang Yingmin(中国:教育学)

教育学博士。北京師範大学国際比較教育研究所副研究員、副教授。1988年~1992年に北京師範大学教育学部を卒業。1992~1994年、遼寧省朝鮮族師範学校の教師を経て、北京師範大学国際と比較教育研究所で修士号、博士号を取得し、当所の講師として務め、現在は副教授として研究・教育に携わっている。在学期間中、1997年~1999年日本鳴門教育大学に留学。また2003年~2005年はポスドクとして、日本の筑波大学に留学し、研究活動を行い、さらに中央大学や早稲田大学、青山学院大学の教員と積極的に日中の学生間の交流授業を進めてきた。日本と韓国、中国を行き来して、実際の授業を観察した道徳教育の国際共同比較研究。


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呉宣児 Oh Seon Ah(韓国:心理学)

現在、共愛学園前橋国際大学・教授。博士(人間環境学)。韓国済州島生まれ育ち。韓国で大学卒業後、一般事務職を経て、1992年留学のため来日。1995年お茶の水女子大学大学院家政学研究科修士課程(児童学専攻)修了、2000年九州大学大学院人間環境学研究科博士課程修了(都市共生デザイン学専攻)。その後、日本学術振興会外国人特別研究員、九州大学教育学部助手を経て、2004年から共愛学園前橋国際大学に赴任。文化心理学・発達心理学・環境心理学の分野の研究・教育活動をしている。単著「語りから見る原風景―心理学からのアプローチ」(2001) 萌文社、共著「「大人になること」のレッスンー「親になること」と「共生」」(2013) 上毛新聞社、ほか多数。前橋市の地域づくり推進活動のアドバイザーや地域の小学校で絵本読み聞かせボランティア活動等もしている。

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