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第3回-⑦「2歳で見られる所有感覚の違い」

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【読者参加型共同研究「日本、中国と韓国、何がどう違う?」】
第3回-⑦「2歳で見られる所有感覚の違い」

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これまでの連載で、物の貸し借りなど、所有感覚に日中間でかなりの違いがあることが見えてきたと思います。ここで次の調査に行く前に、ちょっと面白いデータをご紹介しながら、この所有感覚の違いについてもう少し考えておきたいと思います。まずは次のエピソードをご覧ください。これは私(山本)自身の経験談です。

  1993年の夏に、私は自分の比較文化的な研究を模索するために中国に行きました。中国の発達心理学のセンター的な存在である、北京師範大学児童心理研究所(現発展心理研究所)を訪ね、前年に日本に来られた時にお世話をさせていただいた所長に、ご相談に行きました。所長は私を所長室に招くと、ソファに隣り合って座るように笑顔で促し、「もう君は友達だ」などと親しみを込めて歓迎をしてくださいました。
  私は幼稚園や小学校など、教育現場を見せていただきたいと思っていたので、その交渉をしようと心構えをしていたのですが、こちらが言いだす前にすっと一枚の紙を渡されました。見ると「日本奈良女子大学(当時の所属)山本登志哉先生訪問スケジュール」という大仰なタイトルが書いてあり、滞在予定一週間の予定がすべてもう組まれていました。○月○日、午前、○○小学校参観、接待人○○、○○で昼食、午後○○(観光地)参観、接待人○○、○○で夕食 ・・・ といった具合です。
  私がお願いしようとしていたことの何倍もの見学が組まれていて、さらには食事から観光予定から書店めぐりまで、あらゆる準備が済んでいて、しかもお土産に至るまで全額出してくださるという、至れり尽くせりの歓迎ぶりで、感激を超えてちょっと度肝を抜かれるくらいでした。
  そのスケジュールを見ながら、たどたどしい中国語で話をしていた時のことです。所長が私が手に持っていたスケジュールを、全く何の断りもなく突然にさっと取り上げて、それを見ながら話を始めました。ほんとうに「ちょっと見せて」の一言もなくいきなりのことで、私はびっくりしてしまいました。
  あんまり印象の強い出来事だったので、私は日本に帰ってから何度か友人の前でそれを再現して見せたのですが、やはりみんな一様に驚いていました。

 (山本登志哉 2015 「文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生をめぐる心理学」新曜社刊 p. 59 エピソード3 より)

この時の私はまさか自分の手の中にあるものを、いきなり取られることがあるとは思ってもみなかったので、このエピソードは私にとっては日中の所有感覚の違いを知るうえで、とても大きな意味をもった経験の一つでした。

なぜそういうふうに「手の中の物を人からいきなり取られることは普通はあり得ない」と私が思い込んでいたかと言えば、一つにはそれまで日本の各地で生きてきた「人生経験」からいって、冗談などの場合を除けばそういうことはまずないし、自分も人にそうすることはなかったからです。

知的な発達の遅れをもった子どもの中にはその点で例外になることもありますし、小さな子どももお互いに物を奪い合ったりもしますが、それは「まだ理解ができないんだね」というような形で、特別な例として考えられました。また世の中には大人でも暴力的に人からモノを奪う人や場合がありますが、それは「乱暴な人」の「礼儀知らず」の振る舞いと思われたり、あるいは「犯罪」とみなされたりして、これもまた例外扱いになります。

実際かつて私が日本の京都で乳幼児のやりとりを観察してみたら、子どもは2歳前後にはもう他の子の物をいきなり奪うことをしなくなり、「貸して」と言ったり、手をつけてから許可を得るように相手の顔を見る、といった「相手の意志を確認する」行動をとり始め、3歳頃にはそれがすでに原則になっていることもわかりました(山本登志哉、1991、『幼児期に於ける「先占の尊重」原則の形成とその機能:所有の個体発生をめぐって』、教育心理学研究、39(2)、122-132)。

もちろん幼児はそれ以降もいきなり他の子のおもちゃを奪ったりすることはあるのですが、その時はわざと相手を攻撃するためとか、いじめるためとか、あるいはからかうためにそうするようになります。「いきなり人の物を取ってはいけない」という意識ははっきりしているのです。ですから私はそういうことはもう物心ついたころからの「常識」と思っていました。その私の常識がここで覆されてしまったのです。

この「常識」はもう「頭でそう考えてやっている」話ではなくて、体に染みついた感覚になっています。ですから、その常識が破られると、すごくショックを受けます。「人の物を何も言わずに取る/使う」という振る舞いは、日本では相手を尊重せず、傷つける意味をもちますから、それをされると傷ついてしまうんですね。

というわけで、私は上のエピソードでやはりショックを受け、そして混乱してしまいました。そのようなショックを、私はその後中国での生活で繰り返し体験するようになります。そういう体験が積み重なると、それこそカルチャーショック状態になっていきます。

その後、私は1995年に文部省(当時)の在外研究員として北京師範大学の博士課程に在籍して研究を行いましたが、博士論文のテーマもこの所有感覚の日中差についてでした(山本登志哉 1997 『婴幼儿"所有"行为与其认知结构的发展--日中跨文化比较研究(乳幼児の所有行動とその認知構造の発達――日中比較文化研究)』北京師範大学博士論文)。日本では2歳でもうでき始めるこの「いきなり人の物を取らない」という私たちの常識は、果たして中国の子どもたちではどうなっているのでしょうか?そこになにか所有感覚の違いが見出せるのでしょうか。

いくつかの研究を行いましたが、ここでは1歳~4歳児を対象に行った、物のやりとりをめぐる観察研究の結果を日本と比べてご紹介します。方法は子どもの自由遊び場面をビデオ撮影し、「Aが持っていたり、使った後自分の手の届く範囲に置いてある物をBが獲得しようとする」という場面を探し出して記録していきます。その時どうやって獲得しようとするか、何も言わずにいきなり取ろうとするか、何らかの形で相手の反応を確認し、意志を確かめたり、あるいは交換をもちかけたりするような動作や言葉かけをするか(「交渉」と名付けました)、を分類します。そして最終的にその物がどちらに帰属するかを確かめます。

日本での研究では、1歳頃にはまだ自分が欲しいと思ったらいきなり何も言わずに奪うのですが、1歳後半過ぎから子どもはこの「交渉」を行い始めます。2歳台にもなれば、たとえ力の強い子でも相手に許可を求め、許可が得られなくても根気よく交渉し、それでももらえなくて保母さんに我慢するように言われると泣き出してあきらめるような場合さえ観察されるようになります。ここではひとつだけ、もののやりとりに関する子どもの努力について、こんな楽しいエピソードをご紹介しておきましょう。私(山本)がパートの保父をしながら観察したものです。

  隆(男3歳0か月)がおまるで用を足しながら、同じく用を足している啓二(男2歳5か月)と物差しの取り合いをしている。山本は「こら、うんこしながらそんなんしたらあかんやないの。誰が最初に持ってたん?」と聞く。啓二は「けいくんが」と言い、隆は「たかし」という。山本「そんなら、どっちか貸してあげてよ。啓くん貸してあげる?」啓二「いやの」山本「じゃあ隆は?」隆「いや」山本「それじゃだめだわ」。
  このやりとりをもう一度繰り返し、山本「隆貸したげる?」と言うと隆は「貸したげる」と答え、山本は「わあ、ほんと。隆えらいなあ」と誉める。啓二は即座に隆に対して「ありがとう」と言う。隆は慨然とした表情をしている。山本「隆、ほんとにえらいねえ。お兄さんやねえ」と言う。
  すると隆は啓二の前にある手押し車の座席を指でさわりながら、啓二に「ここ(物差しで)ギーギーってし(なさい)」と言う。啓二が気づかずにいると、再び「ここギーギーってし」と言う。啓二が気づいて物差しでのこぎりをひくようにギーギーとひく。隆は次に別の場所を押さえ、「今度はここをギーギーってし」と言う。啓二がそれに応じないと、物差しを取ろうとするので、山本が隆を制止し、「ほら啓くん、ここギーギーってしてって」と言う。
  啓二がそれに従うと、隆は撫然とした表情のなかから笑みを作り、「そうそう、それでいいんや」とやや満足そうに言い、向き直って大工セットを見、「たかし、だいくさんしょっと」と言って大工遊びを始める。

(山本登志哉、2000、群れ始める子どもたち:自律的集団と三極構造、岡本夏木・麻生武編、『年齢の心理学』所収、ミネルヴァ書房刊 p.103-142.)

このエピソードはかなり「高度」なもので、力づくで奪うことなく我慢するだけでなく、相手に自分の意に沿った使い方をさせることで「代理満足」を得て気持ちを切りかえる、といった工夫までしている例です。そこまで行かなくても、何らかの形で持ち主を尊重してその意思を確かめて使おうとする「交渉」が発生する割合を日中で比較してみたのが次のグラフです。(図は 山本登志哉、2004、文化の中で子どもが育つということ、無藤隆・麻生武編、教育心理学、北大路書房刊 p. 120-128 より)

実際に現場で子どものやりとりを見ていても「日本(京都)と中国(北京)は全く違う」という印象でしたが、その差はグラフでも一目瞭然でしょう。統計的に検定をしてみても、2歳児の段階ですでに明らかな有意差が認められ、日本の子どもはより多くの場合で「交渉」を行っています。4歳児ではそれが日本では一般的になっているのに対して、中国ではまだ3回に1回程度の割合に留まります。

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さて、このデータだけを見れば、「発達の方向」としてはどちらも「交渉をする」割合が増えるように変化するわけですから、「人の物をいきなり取らない」という原則は「より優れた大人の対応だ」という感覚は日中どちらにもありそうです。実際、もし中国の方に「人の物をいきなり取ってもいいでしょうか?」と尋ねたとしたら、ほぼ間違いなく「そんなことはいけないことだ」という答えが返ってくるでしょう(中国的にはいきなり取らないことは「文明的な行動」と表現されるかも。「礼儀正しい」くらいの感じでよく使われています)。

もしそうなら、「それはよくないこと」と思いながらも中国の子どもたちはいきなり相手の物を使うことが多い、というわけで、なんだか日本の子どもの方が発達が早くて、中国の子どもの方が遅い、という風な見方も出てきそうです。あるいは前回にも少し話題に出しましたが、日本人が中国の人間関係を聞くと、「まるでジャイアンのよう」という風に理解されることがしばしばあります。「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」という姿勢で、平気で人の物を「奪う」弱肉強食の世界ですね。

そうすると、最初にご紹介したエピソードにある中国の「一流大学*」の「超一流の研究所」の「所長」さんも、まだ十分に発達していない人か、あるいはジャイアンのような人ということになってしまいます(笑)。*北京師範大学は、中国における教育系大学のトップ。教育関係の研究者や国家官僚を輩出し、国家の教育政策へのシンクタンク的役割も持つ国家重点大学です。

そこで、もう一歩踏み込んで、中国の子どもたちのやりとりが、本当に弱肉強食になっているか、分析を進めてみます。やりかたは簡単で、それぞれのやりとりで最終的に誰がそのものを確保したかを調べ、星取表を作って「強いもの順に並べる」ということをやるわけです。この手法は類人猿の群れの中の順位を探る手段として作られたものです。ニホンザルやチンパンジーなどは、群れの中に順位を作っておいて、物を奪い合うような事態になれば、いちいちけんかをせず、順位に従って「上の物が取る」という形で解決するのです。この順位はなかなかシビアで、ニホンザルなどでは子どもが口に入れたエサを母親が口に手を突っ込んで奪って食べることもあるそうです。まさに弱肉強食の世界です。

予め日本で調べてみると、子どもたちの中にはそういう順位が作られていないことが明らかでした。トップの子どもが一方的にものを獲得する、というような構造が見出されないのです。面白いことに比較的獲得する子どもは「泣き虫」だったりすることもあります。相手が泣き出すと、もう取れなくなるので、結果として泣くことで確保できるんですね。逆に喧嘩が強くてみんなから一目置かれ、やや「おとこ気」も感じられる子どもは獲得率が低かったりもします(山本登志哉、1991)。

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仮に中国的な子どもの世界がジャイアン的な弱肉強食の世界だとすれば、ニホンザルのようにものすごくはっきりした順位が見出されそうです。上の物は一方的に取る。下の物は文句を言えない。そんな世界ですね。ところが分析をしてみると、これが全然違います。図に見られるようにやっぱり日本とおなじで、誰かが常に一方的に奪うような関係はつくられていないのです(山本登志哉 2006、『中国の1歳児クラスにおける所有関係-ヒトの幼児集団は順位制に従うか』、法と心理、5巻1号p. 91-98)。

これは一体どういうことでしょうか?

日本の方はこの結果にやや混乱する方が少なくないと思いますが、実は「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」というジャイアンイメージでとらえてしまうのでおかしくなるのです。実際にそこで成立しているのは「お前の物は俺の物。俺の物はお前の物」という世界なのですね。つまり「いきなり人の物を使う」のは、「強いものが奪う」のではなくて、「お互いに相手の物を自分の物のようにして使い合う」というやり方なのでした。だから、もし相手がそれを拒否すれば、それでも強引に奪い去るようなことはあまりありません。その意味で、基本的には相手の意志が尊重されることは日本と同じです。

ただ、日本の子どものようにお互いの意志を「まず相手の顔色を見て判断する」という「思いやりの関係調整」ではなく、まず自分の意志を示して(物を取って)それに対して相手が文句を言うかどうかで判断する、という「自己主張のしあいによる関係調整」をベースにするという違いがあるわけです。

さらにもうひとつのポイントがここに加わってくるでしょう。それが中国語で言えば「你我不分、彼此不分」といったことになるでしょうか。親しい間柄どうし、私とあなたと区別をしない、というような感じの言葉です。第3シリーズ「おもちゃの使い合い」の事例で、おもちゃに名前を書かれることにCさんが抵抗感を示したのは、そういうやりかたが「你我不分」にそぐわないことへの違和感なのだと考えると、その意味が分かりやすくなります。

そう考えてくると、最初のエピソードの所長さんの行動は私を傷つけるための行動ではなく、私を無視した行動でもなく、実は「你我不分」の「親しみ」をごく自然に示した行動だった、という理解が可能になります。そして実際にそうだったのです。かといってそういうことを「頭で理解」できてからでも、そうされるとなんとなくショックを受けてしまう「感覚」はなかなか消えない、ということも事実で、ここが異文化交流のむつかしいところです。

というわけで、これまでの連載で繰り返し見出された「自分の物」「人の物」をめぐる大人のやりとりの感覚(所有感覚)の違いは、すでに2歳の段階ではっきりと差が表れ始めるくらいに「根が深い」ものであることが分かります。その感覚の違いは、「頭で理解」すればそれでうまくいくような「浅い」レベルのものではないのですね。もっと生き方の根本に関わるような大きなズレの問題がそこに見えてくることになります。

そしてこの考え方というか、感覚の違いは、「困ったときにどうやって助け合うか」というその助け合いの姿勢の違いという問題にまでつながっていると私は感じています。ということで、次回からはその「助け合い」について、日中でどんな違いがあるのかないのか、ということに関するデータを見てみたいと思います。

筆者プロフィール

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山本 登志哉(日本:心理学)

教育学博士。子どもとお金研究会代表。日本質的心理学会元理事・編集委員。法と心理学会元常任理事・編集委員長。1959年青森県生まれ。呉服屋の丁稚を経て京都大学文学部・同大学院で心理学専攻。奈良女子大学在職時に文部省長期在外研究員として北京師範大学に滞在。コミュニケーションのズレに関心。近著に「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」(高木光太郎と共編:東大出版会)

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姜英敏 Jiang Yingmin(中国:教育学)

教育学博士。北京師範大学国際比較教育研究所副研究員、副教授。1988年~1992年に北京師範大学教育学部を卒業。1992~1994年、遼寧省朝鮮族師範学校の教師を経て、北京師範大学国際と比較教育研究所で修士号、博士号を取得し、当所の講師として務め、現在は副教授として研究・教育に携わっている。在学期間中、1997年~1999年日本鳴門教育大学に留学。また2003年~2005年はポスドクとして、日本の筑波大学に留学し、研究活動を行い、さらに中央大学や早稲田大学、青山学院大学の教員と積極的に日中の学生間の交流授業を進めてきた。日本と韓国、中国を行き来して、実際の授業を観察した道徳教育の国際共同比較研究。

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