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【被災地に遊び場を】 「気仙沼あそびーばー」の誕生

被災地からの叫び

「天野さん、子どもに遊びが必要だって全国に発信して!」

あの大津波に巻き込まれた仙台の海岸べりにある遊び場に勤めていた友人が、電話口でそう叫んだ。震災から3日後、仙台に多くの友人がいるぼくは、そのメンバーの安否さえ分からず焦燥感を募らせたが、ようやく通じたその電話での彼のその叫びを聞き、拍子抜けしてしまった。「こんな時に、こんな目にあっているのに・・・」。それが正直な気持ちだった。

刻々と伝えられる被災地の様子。まだ被害の全容さえ全く分らないその時期に、一体誰が子どもの遊びのことに耳を傾けるというのだろう。けれど、阪神淡路大震災の時も神戸市長田区で遊び場をつくり運営していたぼく自身にも、こういうときだからこそ子どもには遊びが必要だという確信があった。

以前ぼくを取材し、その時に強い印象を残していたジャーナリストを思い出し、連絡を取った。仙台で被災した友人の一言、長田区で行っていた遊び場での子どもたちの様子、今回も子どもには遊び場が必要であることを一気に伝えた。聞き終えた彼は一言言った。「天野さん、それ今晩中に書け」。

明け方に出来上がった原稿を送ると、すぐに電話がかかってきた。今はまだ早いが、時期を見てできる限り早い機会に必ず配信する、彼はそう約束してくれた。彼は共同通信社の記者だった。地方では三大新聞より、地方紙のほうが優勢だ。共同通信社からの配信のほうが、被災地に届く可能性がずっと高かった。
「子どもを癒やす遊びの力 自分を表現し、乗り越える」(共同通信社への寄稿文から転載)


阪神淡路大震災での実感

ぼくは、冒険遊び場という子どもの遊び場を、その地域の親たちと協力しながら長年つくってきた。冒険遊び場とは、子どもの「やってみたい」思いを極力その手で実現できるよう、多くの公園などに見られる禁止や制約を解除。「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに掲げ、運営されている遊び場だ。日本で初めての常設の冒険遊び場は、東京の世田谷区にある。羽根木プレーパークというその遊び場に常駐する大人(プレーリーダーという)として配置された最初の人間が、ぼくだ。

子どもは遊びを通じて、人生を生き抜くうえでの実にさまざまな力を身に付けていく。それは決して「教育」では教えることができないものばかりだ。遊びは子どもの魂の営み。ご飯を食べなければ肉体が死んでしまうように、遊ばなければ魂が死んでしまう。ぼくは30年以上にわたる実践の末、そう確信するに至っている。

遊びを通じて子どもが行うことのひとつに、「自分自身をケアする」というものがある。悲しみや悔しさ、怒りや辛さなどを遊びの世界に投影し表現する、或いは全身で発散させ昇華しようとするのだ。阪神淡路大震災のような大災害時でも、それは変わらなかった。むしろ、より顕著であった。その実感が、遊び場を被災地につくろうとする思いを確固たるものとさせた。子どもには自分で自分をケアする力がある。それを発揮することができる遊び場、それをつくりたい。冒険遊び場を全国に普及するために立ち上げた、特定非営利活動法人日本冒険遊び場づくり協会。被災地に遊び場をつくることを決定し、ぼくは4月3日に、はじめて被災地に調査に入った。


再び協働

阪神淡路大震災の時、被災地での緊急支援などを行ったことがなかったぼくたちは、知り合いがいる国際NGOである『シャンティ国際ボランティア会(通称SVA)』が初めて国内での活動に取り組むことを知り、協働することを提案した。子どもの問題を重視するSVAは国内の子どもについて逆に疎いからという理由で、その提案を歓迎してくれた。SVAの支援活動は、長期戦を見据えて自分たちの現地本部兼宿泊拠点を自前でつくり、食事などの全てをそこでまかない、ボランティアを長期宿泊させて包括的に生活支援を図るといったスタイルだった。この生活基盤があったからできた遊び場づくりだった。

今回も、SVAは緊急救援に入ることを決定していた。改めて協働を申し入れ、気仙沼にその拠点を築いた。現地には暗くなってから着いたのだが、4月に入っていたとはいえ寒さは半端ではなく、翌日の早朝には黒い車体が霜で真っ白になっていて、乗ってきた車だと気づかなかったことを思い出す。その昼に見た被災地の光景は、テレビなどで見るものとは全く違ったものだった。その強烈な衝撃は、阪神淡路大震災の時とも全く異なった感覚だった。


土地の提供

リアス式海岸の特徴で、谷がひとつ違っても文化が違うと、そこの土地の複数の出身者から聞かされていた。裏を返せばコミュニティが生きているという意味であり、そういう場では学校から嫌われてしまうと決定的に動けなくなってしまう。そう考え、初めに校長先生に会いに行くことにした。

地図を開き、学校の位置を確認する。当たりをつけ最初に尋ねたのが、気仙沼市本吉町大谷地区。幼稚園、小学校、中学校が同じ敷地にあり、この近くに遊び場をつくることができれば、この地域の子どもは全てカバーできることになる。遊び場をつくりたいという申し出に、校長はその地区の振興会長を紹介してくれた。

会長は夫妻で協力して避難所の運営に精一杯だったのに、ひょいと現われたぼくの話を聞き「場所を探しておいてやる」と言った。校長と振興会長夫妻、3人との出会いが決定的に後の活動を後押しすることとなった。

遊び場とは別に、何か必要なものはありますか。そう問うぼくに、会長は「リュックサックがほしい」と告げた。避難所の人たちは、全てを失っていた。余震のたびに不安が募る。リュックサックに生活用具をつめておけば、それひとつ抱えて逃げられる、だからリュックサックなのだと言った。

ひとまず東京に戻ったぼくたちは、遊び場の仲間たちにメーリングリストを使ってリュックサックの提供を呼びかけた。会長は50個ほどと言っていたのに、なんとそれで500個ものリュックが半月のうちに集まった。

2度目の訪問は、4月18日だった。その場で、会長はいいところを見つけたと案内してくれた。その土地は、学校を見下ろせる私有地だった。学校は海岸から約500メートル、海抜30メートルに近い位置にあったが、それでも校庭が水没していた。その学校よりも更に高い位置にあり、ここなら安心だろうと会長は話してくれた。

段々畑と小さな急斜面の竹林からなるその土地は、それぞれ別の地主さんがいた。直接紹介してもらい、ぼくたちの願いを伝えたところ、地主さんは2人ともその場で快く了解してくださった。


気仙沼あそびーばーの誕生

その日から、遊び場への造成が始まった。段々畑は平地なので手を入れずにすんだが、5メートルほどの急斜面に生えた竹林はうっそうとして、つたが丸ごと絡まり、子どもの小さな身体も入れないような状況だった。その伐採と手入れは思いのほか手ごわく、遊び場のオープンは26日と決められた。

校長は、遅れていた始業式が21日にあるので、そこで遊び場のPRをしたらどうかと提案してくださった。始業式が終わったあとで子どもたちに遊び場のことを伝えると、オープンの前だというのに、その日の放課後から子どもたちがやってきた。「おれたちも手伝う」。竹林から切り出した余分な竹や樹木を引っ張り出し、皮をむき、枝を払う。結構な重労働に、子どもたちは文句を言いつつも、毎日やってきた。

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子どもが初めて遊び場の手伝いにきたその日のうちに、振興会長の奥さんが満面に笑みを浮かべて次の言葉を伝えにきてくれた。

「子どもたちが、避難所でどれだけ我慢していたかがよーくわかった。遊び場に来て、子どもの野生が一気にはじけた!」

この言葉が、どれだけぼくたちを勇気付けたか。知り合いも、つてもない土地で、ぼくたちは歓迎されるのだろうか、余計なことをしにきたと迷惑がられるのではないだろうか。子どもたちにとっては間違いなく不可欠な遊び場だが、大人がそれを喜んでくれるとは限らなかった。子どもに元気が戻ると、うるさくなる。狭い避難所では、それは必ずしも歓迎されないことを阪神淡路大震災の時に実感していたぼくたちは、ここでなら遊び場が続けられるかもしれないと予感していた。

オープンしたその日、初めて来た子がポツリとつぶやいた。
「ここなら、もう津波来ないよね。」
最大の安心はそこだったかと、改めて震災の傷跡を思った。

「遊び場ができるまで、おれたちどれだけ暇だったと思ってんだー!」

歓迎される声に混ざって「いつまでいるの?」と不安げに聞く声。失うことへの恐怖が残っていると感じる一瞬。子どもたちは、この遊び場を『あそびーばー』と名付けた。

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初めは3ヶ月と期限を限ってはじめた遊び場だったが、地元の人の声に支えられ、2012年の8月までは行う計画でいる。地元の人にどう残し、引き継いでいくか。今はそれが課題となっている。

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筆者プロフィール
report_amano_hideaki.jpg 天野 秀昭 (NPO法人日本冒険遊び場づくり協会/プレーパークせたがや 理事、大正大学 特命教授)

東京都葛飾区生まれ。20歳のころ、自閉症児との出会いをきっかけに「遊びの世界」の奥深さを実感する。1979年に開設された、日本初の民官協働による冒険遊び場『羽根木プレーパーク』で初めての有給プレーリーダーを務め、その後、地域住民と共に世田谷・駒沢・烏山の3プレーパークの開設に携わる。子どもが遊ぶことの価値を社会的に高め、普及し、実践するための2つのNPO法人『日本冒険遊び場づくり協会』『プレーパークせたがや』立ち上げの一員となる。両法人の理事を務めている。09年4月からは、大正大学特命教授として、遊びに関わる大人、ことにプレーリーダーの育成を目的として教鞭をとっている。
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