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研究室

台湾大地震からの復興~震災による校舎全壊から、新校舎建設への道筋と12年後の思い~(後編)

舘林 保江(国立教育政策研究所・研究協力者)

2011年12月 9日掲載

要旨:

台湾で1999年に発生した9.21地震後、新校舎の建設は「新校園運動」の方針のもと、学習者の視点が重視され、学びは教室だけなく運動場でも行われるととらえ、機能性と伝統的文化に基づくデザインが採用された。聞き取り調査では、人々は知恵を出し工夫し、力を合わせて一つひとつの課題を乗り越えたこと。自分の使命を自覚し、家族や隣人と力を合わせて校舎の再建や地域の復興に尽力したこと。そして、人々の心には自信と力強さそして悲しみが共存していること。現在の生活に幸せを感じながら、あの惨事を過去のこととして振り返ることができる時期がくることなども分かった。
台湾の人々が東日本大震災に多額の義援金を寄せてくれたのは、辛い経験への共感とこれまでの歴史を含め日本を信じ応援している証である。

「台湾大地震からの復興~震災による校舎全壊から、新校舎建設への道筋と12年後の思い~」後編では、震災後に訪問調査した南投県の育英国小学の様子を報告する。 子どもたちの継続的な学習を保証するために奔走した教職員にはどのような苦労があったのか、また地元の復興に尽力した地域の方々へも聞き取りを行い、当時の思いや現在の気持ちなどを紹介する。

■ 調査期間と調査対象

調査を実施したのは台湾中部の南投県に位置する育英国小学である。訪問日と聞き取り調査の対象者は以下のとおりである。

訪問校 育英国小学
訪問日 2011年7月27日
聞き取り対象者 陳玉蘭 (学級担任)
陳紹章 (学級担任)
潘綺雲 (主任教員)
李春生 (地域の会長)
洪啟釗 黃美專 (地域住民)

育英国小学*1

育英国小学は日本の台湾統治下、1946年に設立された学校である。9.21地震の後に再建された新校舎は完成まで4年の歳月を費やした。「総合的で多様な学習空間」を全体のテーマとし、幼稚園と小学低学年のエリアは家庭的な学習環境を重要視し、子どもたちが自由に動けるよう校舎は平屋である。中高学年のエリアは人間関係の構築、体力そして知力の育成を重視した空間づくりを大切にした。共有スペース、特別教室や体育館などは教職員、幼児児童そして地域住民に対して開放的で、コミュニケーションを重視するものとした。学校は地域の中心となる場所であるという考え方に基づいている。校舎や施設は自然との関わりの意識を涵養する環境教育を中心として、設計された。

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現在の育英国小学

育英国小学での聞き取りは質問への回答形式にて報告する。教職員への聞き取り調査では、当時の辛さや悲しみを思い出し、涙で話ができなくなる場面に何度となく遭遇した。その際には無理に話さなくても大丈夫であることを伝え、話したいこと、あるいは話せることだけをお願いした。

Q: 地震発生後、あなたはどのような対応をしましたか。
A: 家が全壊してしまったので、自分は主任でなかったこともあり、学校のことよりも自分の家族を守ることに集中しました。
 地震が発生する2週間前に埔里地区に全面的な停電があったので、大きな揺れを感じた時は、また大きな事故などが起きたかと思いました。

Q: 学校は、児童に対してどのような対応をしましたか。
A: 学校は校舎の損傷や地域住民の避難場所になったので、学級担任が名簿に基づき児童一人ひとりの家庭に電話し、閉校になったことを伝えました。電話連絡ができた場合には名簿に印をして、確実に連絡したかどうかを確認しました。
 その2週間後、孔子寺院*2で臨時の授業が行われる際にも一人ひとりに連絡しました。児童への連絡は教員の役割でした。孔子寺院での臨時授業に参加するか、あるいは他市の学校へ転校するかは保護者の判断でした。当時約1,000名の児童が在籍していましたが、半分が他市へ転校していき、残りの500名が孔子寺院での臨時授業に参加しました。当然地震の影響を受けていなかった他市の方が生活は安定していたので、本当は転校したかったと思いますが、他市に親戚がいなかったため、この地域に残ったのです。
 簡易授業は日常とは異なるので、教員もそうですが、児童も落ち着かなかったと思います。

Q: 地震は、教員の教授法や教育に対する考え方にも影響しましたか。
A: 通常は3クラスのところを、孔子寺院での臨時授業では1クラス62から72名ほどの大人数で教えました。教材も教具も不足していましたので、いろんな苦労がありました。
 でも、子どもたちは日常とは異なる非常事態であることをよく理解していて、いつもよりむしろお行儀が良かったです。保護者も非常に協力的でした。しかし、捕里地区は山間部なので、この地震により他の地域からさらに孤立してしまう恐怖を誰もが感じていました。

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インタビュー時の様子

Q: 地震のような緊急事態の際、校長のリーダーシップや教員のまとまりはいかがでしたか。
A: 校長は毎日学校に来て、教員も毎日のように会議を重ねました。会議には主任教員、行政官も出席しました。
 震災後、退職した校長が学校にやってきて、日本統治下の申し受け事項として、本校がその当時のこの地域の児童生徒と教職員の名簿を管理していることを知らされました。その名簿等の資料が地下室に保管されていることが、この校長の訪問で明らかになりました。その前校長は卒業生と連絡をとり、同窓会組織を立ち上げ、みんなで励まし合うことに尽力しました。

Q: 避難時の生活はいかがでしたか。
A:
・私のテント生活は2年半に及びました。家屋が全壊し、家を建て直すまでの間、とても辛かったです。それは思い出すと今も涙が出るくらい辛い経験です。
・私のテント生活は1年でした。
・当時、私の娘は中学生で幼かったのですが、その時は転校の手続きも簡素化されたので、安全を考えて2ヶ月間他市へ転校させました。
 家にひびが入り、建築家より安全性の確認を得るまで、私の家族は3ヶ月間のテント生活を送らなければならず、とても辛かったです。テントには小さな机しかなく、光も少なく暗かったです。その暗い明かりの下で勉強したことを思うと今も涙が出てきます。
 父は70歳で膝が悪かったので、テント生活はとても不便で睡眠が困難でした。テント生活を早めに切り上げるために、車庫にベッドを持ち込み、そこで眠る工夫をしました。

Q: 地震の経験は現在、学校でどのように伝えていますか。
A: 震災を体験した子どもたちは、たとえば、日本の3.11地震をテレビで見て自分たちの経験と照らしあわせ共感していると思います。しかし、現在の子どもたちは9.21の地震の経験はもちろん、大きな災害の経験がないので、被害者の気持ちを思いやるなど、共感するのが難しいと思います。


次は、9.21地震発生1年後に地域の会長になった方の話である。ここでは、震災により地域の人々の絆が深まったこと、様々な支援資金や政府・軍の迅速な対応に感謝していること、しかし今も揺れに対しては敏感に反応してしまうことなどが話された。
「自分は地震発生1年後に地域の会長になったが、当時はまだまだ混乱状態でした。地域の人たちの協力に頼るしかありませんでした。学校の近くに住んでいる住民、公園の近くに住んでいる住民など、地域を小さな組に分けて別々に何度も会議を行いました。会議は、地方政府、中央政府、プライベートファンドなどのレベルで本当にたくさんありました。最も困難だったことは、家の再建に関することでした。有り難いことに、9.21ファンド*3もありましたし、政府の呼びかけに応じたボランティアの建築家もいました。財源の支援として銀行が利子を調整し、国民や企業から寄せられた寄付金などもありました。

地震より10年以上経過し、新しい家も建ち、安心して暮らしていますが、娘は今も小さな地震を感じるだけでドアを直ぐに開けて家の外に逃げようとします。9.21地震で家が崩壊したので、屋内にいることが危険だと思っているようです。

地震の経験は確実に地域の人たちの絆を強めました。以前はそれほど話をしなかった近隣の人たちとも話をするようになりました。再建時の話し合いもそうですが、家の間取りや工夫をどのようにしたかなど、小さなことも互いに共有しました。

9.21地震では軍隊の活躍に本当に感謝しました。全壊・半壊したそれぞれの家に対して対策が立てられ、住民の希望を取り入れて、迅速に軍隊が古い危険な家を取り壊していきました。通常、地方政府も中央政府も様々な手続きなどで時間がかかり、速やかに対応できないので、軍隊の活躍は本当に有り難かったです。医療、水、食料支援にしてもそうでした。また民間の様々な団体の対応も迅速でした。」

そして、三人のお嬢さんがいらっしゃる自営業を営む地元の方にも話を伺った。旦那様も奥様も当時のことを思い出しながら、話に熱が入っていった。復興過程の写真や政府が配布した記念誌を取り出して説明してくださった。自分たちの経験だけでなく、日本の現状に対する深い哀悼の念と一日も早い復興に対する期待と信頼も寄せてくれた。

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聞き取りを行ったご家族

Q: 地震直後の様子はいかがでしたか。
A: この通り沿いの家は全て崩壊しました。建物が古過ぎたうえに、建築方法に多くの問題がありました。震災当時の家屋は、一軒一軒が独立しておらず、壁を共有して何件もの家がくっついていました(長屋みたいな構造)。その上、9.21地震はマグニチュード7.3でしたが、当時の家屋には耐震性に関する考えも法規制もありませんでした。
 当時は地震が発生したら、1階か外に出るようにと言われていましたが、1階に逃げた人は、つぶれた建物に押しつぶされて死亡したり、あるいは怪我をしました。そのため、その後は揺れを感じたら、4階に逃げるか、外に出るようにと避難方法の指示が変わりました。
 震災後に建設された家はそれぞれの壁を持ち、強固な作りになるように鉄筋を埋め込むことや、様々な法規制のもと頑丈なものとなりました。本棚も壁に備え付けるようになりました。9.21震災では本棚などが倒れて、その下敷きになる人が多かったからです。

Q: 震災当時(避難当時)、困ったことや課題は何ですか。
A: 震災後、国民や各団体・企業から多くの募金が寄せられましたが、その募金はどこにどのように使用されたのか明確ではありませんでした。家を無くした住民や仕事を失った人々はほんとうに困っていました。公的な善意として寄せられた寄付金なので、監査人をつけてしっかりとアカウンタビリティを果たして欲しいと思います。
 政府より家が全壊した人には20,000元、半壊の人には10,000元の支援がありました。しかし、その申請用紙を記入することはとても大変でした。多くの証明書(収入を示すものなど)などのドキュメントが必要で、我々には骨の折れる作業でした。

Q: 子どもの学習に関してはどのような対応されましたか?
A: 1ヶ月後に簡易の学校ができ、学習は日常に戻ることができました。このときの政府の対応は早かったです。

Q: 震災後、子どもに対して、特に配慮したことはありますか。
A: 子どもたちは学校が再開されれば、友人や先生と会うことができるので、安心するものです。学校の再開が先に伸びれば不安にもなったでしょうが、比較的早く再開したので、良かったです。子どもは話すこともできますし、地震が発生した状況も理解できるので大丈夫ですが、犬はできないのでむしろ飼っていた犬のことが心配でした。

Q: 震災の時には、周りの人たちへの支援もされましたか。
A: 家が壊れてしまったので、自分たちのことで精一杯でした。私たちは養鶏も営んでいたので、その小屋に避難しました。震災後、救援物資も直ぐに届きましたし、医療班もいましたので、店の再開のことが気がかりなだけで、他のことは心配要りませんでした。独立したインターナショナルファンドは震災直後だけでなく、長期間にわたり私たちのために食事を作ってくれました。1日3回の食事です。私たちはこのような経験をしたので、テレビで日本の様子を見るととても心が痛みます。

Q: 震災後12年が経過しますが、当時の恐怖心や地震に対する恐れは和らぎましたか。
A: 既に家は建て直していますし、頑丈な作りの家なので心配ないと思いますが、揺れに対する恐怖心は今もかなりあります。どんなに小さな揺れでも反応してしまいます。年老いた母も同じです。

Q: 地震のことを振り返ると、どんなお気持ちになりますか。
A: 私たちには店があって経済活動ができています。それだけでも大変有り難いことです。しかし、仕事のない人たちは本当に大変だと思います。政府の支援は十分ではないですし、どのように暮らしているのかわかりません。
 地震の時には、軍隊が来て、崩壊した瓦礫の処理や被害者の救出活動など、ほんとうによく支援してくれました。迅速な対応に感謝しています。今後の余震や安全性を考慮して、半壊の家には本人の希望を確認後、壊して良い場合には家の外壁に赤丸を記しました。壊してよい家が一目でわかりますので、一気に壊しました。

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9.21地震についてまとめた冊子

まとめ

今回の訪問調査より得られたことをまとめると、9.21地震後の学校の再建では、学校を含む公共施設の利用者の視点を大切にする方針がとられたことが重要だったと考えられる。ここでは詳説しなかったが、まちづくりを推進する総合的計画では、地元の良さを見直しそれを生かすことと、利用者が満足できるまちづくりが必要だとされている。学校の新校舎再建には学びの場を拡大し、これまでの画一的な学校建築ではなく、デザインと機能性を追求した。斬新な西洋的なデザインではなく、自分たちの伝統的文化を見直したのである。学校が、教職員や児童・生徒そして地元住民の生活・学びの場として利用されるためである。実際、訪問中も体育館を利用する地元の皆さんをたくさんお見かけした。

聞き取り調査では、人は極度の恐怖やストレスを受けると、時間が経過しても癒せないものが心に残存するのだろうと推測された。地震などの緊急時には、自分や家族を守ることが優先されるのであろうが、自分が必要な支援を受けた人は、次は困っている人のために何か貢献したいと願うものだと、当時の児童の話から読み取れた。 そして、現在から過去を振り返ったとき、今現在安全で安心できる幸せな生活を送っている方々は、震災による惨事や悲劇にとても辛い思いをしたがゆえに、今の幸福により深く感謝の念を抱くことができるものであると、多くの方々への聞き取りからわかった。」

台湾の9.21地震から12年目を迎え、現地の学校関係者は当時のことをどのように振り返っているのだろうか、という思いから今回の調査を実施したが、事例報告で取り上げた2校は震源地に近い学校で、当時のご苦労は甚大であったと思われる。南光国小学、育英国小学より東日本大震災の被災者の方へお悔やみの言葉をいただき、両校ともとても好意的に調査へご協力いただいた。自分たちの経験が少しでも日本を励まし、役立つなら光栄であるとおっしゃってくださった。感謝の一言に尽きる。台湾は東日本大震災においてもいち早く救護隊を送り込み、約200億円にも達する義援金を寄せてくださった。その9割が民間人からのものだという。両国が自然災害の多い国として、95年の阪神・淡路大震災から学んだことが多かったということ、そして、9.21地震の際に日本が差し伸べた支援に対する感謝があったこと、さらに日本の台湾統治を古き良い時代とする親日の方が多いことなどが背景としてあるようだ。

最後に、今回の台湾調査を可能にしてくれた許銘鉄博士(康橋雙語実験高中の小学校校長)と大学院時代からの友人である、李静怡と呉政沅は通訳だけでなく、ご家族みんなで私の調査を支援してくれた。心より感謝を述べたい。


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*1 育英国小学の復興過程を含めた概要は以下のウェブページでみることができる。
http://ms1.yyes.ntct.edu.tw/~websysop/yuyingweb/history/english/bottom.htm
*2 孔子寺院とは近くにある寺院のことで、震災後はそこで臨時授業が行われた。
*3 9.21ファンド(「921重建基金会」)とは、9.21地震の際に寄せられた義援金を元に設立されたファンドである。この基金から低所得者の家の再建の補助金や全壊した集合住宅建て替え一次貸借金が出された。

筆者プロフィール

lab_tatebayashi_yasue.jpg 舘林 保江(国立教育政策研究所・研究協力者)

静岡出身。中央大学大学院文学研究科教育学専攻博士課単位取得退学。イギリス・サリー大学ローハンプトン校教育経営修士課程修了。主な論文に「イギリスの小学校におけるPSHEおよび市民性教育」(『ヨーロッパにおける市民的社会性教育の発展−フランス・ドイツ・イギリスの学校』武藤孝典・新井浅浩編、東信堂、2007年)、「学習基本調査・国際6都市調査」ロンドン調査担当(Benesse教育研究開発センター、2008年)、「イギリスの国立スクールリーダーシップカレッジ―イギリス人校長が見た日本の学校」(『スクールリーダーの原点—学校組織を活かす教師の力』渕上克義編者代表、金子書房、2009年)、監査法人トーマツにて学校評価の調査業務担当、2011年4月退職。
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