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子どものための防災システムの確立に向けて~座談会「人と人とのつながりの中で、子どもたちはよみがえる」(前編)

要旨:

阪神大震災後、神戸大学医学部小児科教授 中村肇氏、甲南大学文学部助教授 井野瀬久美惠氏、東京大学医学部小児科講師(外来医長) 中村安秀氏が、「子どものための防災システムの確立に向けて」をテーマに話された座談会。(前編・後編)
季刊子ども学「子どもたちの震災復興」1996より転載。 (プロフィールは1996年現在)

瓦礫を前にした人間の連帯感

中村(安) 今、まだ神戸は復興の途上ですが、遠い将来のことを考えますと、「神戸に大きな地震があって大変だったよ」と語り継いでいくのは、子どもたちしかいないわけです。そういう子どもたちが、何を見て、何を学び、そして何を語っていくのか。具体的な被害の話もそうですけど、できればそのような未来へ向けての視点も含めて、話を進めていければと思っています。

 私はボランティアとして被災した子どもたちの医療活動を行ったのですが、中村肇先生は神戸大学、井野瀬久美惠先生は甲南大学という地元の大学で教えられていて、実際の被災も体験されました。まず最初は、先生方ご自身の被災体験についてお話しいただけますでしょうか。


中村(肇) 私のうちは東灘区の田中町なんですが、被害が最もひどい地区で、近所の木造家屋は100%壊れました。被災の瞬間は、月明かりの中で今ひとつ何が起きたのかよくわかりませんでしたが、壁土の匂いがプーンとするんで、これはただごとではないなと思いましたね。
 僕はパジャマの上にズボンをはいてオーバーを着て外に出ましたけど、みんな同じような格好で出てきて、互いに「(助かって)よかった、よかった」と明るく会話してました。被害があまりにひどかったせいでしょうか、かえって悲愴感はありませんでしたね。


井野瀬 私の自宅は大阪の豊中市ですけど、家の中はぐちゃぐちゃなのに、外はシーンとしていて、ものすごい静寂でしたね。本来なら消防車などのサイレンがわんわん鳴っていいはずなのに、何の物音もしない。しばらくは茫然自失の状態で、その静寂を破ったのは学生たちからの連絡でした。ちょうどあの日は卒業論文の提出日に当たってましたから、学生からすぐに電話が入ったんです。でも、それも午前8時ぐらいには回線がパンクして途絶え、午前10時ぐらいまではまた静寂が続いた。今から考えれば、むしろその静寂のほうが恐ろしかったですね。


中村(肇) うちの辺りも、元日の朝みたいでしたね。国道に面してますから、普段は車でいっぱいなんですけど、救急車も消防車も車は1台も通らない。


中村(安) 田中町は、神戸の中で最も被害の大きかった激震地区ですよね。


中村(肇) 死亡者も一番多かったしね。
 うちの辺りから1キロぐらい離れると、もうそれほどではないんですね。でも、周りの被害状況がそうでもないとわかったときには正直ホッとしました。周りも全部うちの周辺みたいだったら、もっと落ち込んでいたと思いますよ。


井野瀬 先生のご自宅の辺りは、本当に軒並みペッシャンコという状態ですからね。


中村(肇) ほんまに生き残ったことが不思議なくらいで、家がつぶれたことなんか二の次。命があったことをみんなして喜んだ。今思うとそんな気がしますね。


中村(安) そういう状況で人に出会うと、むしろ悲愴感はなくて...。


中村(肇) 逆に助かったという気持ちのほうが強いんですね。


井野瀬 助かってよかったというのが、別の表現になるのは、次の段階なんでしょうね。


中村(肇) みんな同じようにやられているから、よかったのと違うかなと思うんです。自分とこ1軒だけやられて、隣は全部無事だというのでは話が合わんと思うんですけどね(笑)。うちの近所は似たような古さの家が並んで立ってましたから。


中村(安) その意味では震災は平等にみんなを襲ったのですね。でも、倒れてしまった家の下に生き埋めになってしまった人もたくさんいらしたでしょう。


中村(肇) 隣にパーキンソン病の寝たきりのおばあさんがいるんですが、そのおばあさんが家の下敷きになってしまったので、何とか助け出そうとしました。
 そのおばあさんというのは、痴呆があり、夜中にわめいたり、暴れたり、普段はお嫁さんに大変苦労をかけているんです。ところが、そのお嫁さんが壊れた建物の中に必死に助けに行こうとする。その行動を見て、医者たる我々は、いかなる事態においても命を助けることに邁進すべきなんだなと、つくづく思いました。
 現在、末期医療や慢性疾患の管理をめぐって、QOL(quality of lifeの略。生命の質の意で、「障害や慢性疾患を抱えて生きていくことの意味」などを考えるときに使われる概念)ということがよく言われますが、身内の人がとっさのときにそういう判断をするのを見ると、絶対に譲らずに助ける方向で医師は仕事をしていくべきだと思いますね。生きるか死ぬかというときのとっさの判断というのは、人間の正直な反応だという気がして、それが印象深かったですね。


中村(安) そのときには、まだ余震はあるし、誰も救助活動の経験なんてないし、大変だったでしょうね。


中村(肇) 大学生の息子さんと一緒に余震のある恐ろしい中を壊れかけた家の中に入って行かれてましたからね。


井野瀬 人間としての連帯感があるんですね。ともかく助ける。なんとも表現しがたい感情ですね。


中村(肇) 命令されているわけでもないのに、「あっちに埋まっている人がいるぞ」と声がかかると、すぐに行ってね。


中村(安) 普段、顔を知っている人も、知らない人も、声がかかったらみんな一緒に救助活動を行う。それで助かったら、「よかったな」と言って、また次に行く。


中村(肇) とっさの判断で、よくあれだけできたなと思います。


中村(安) そういうときに、QOLなんていうこざかしいことは誰も考えない。


中村(肇) そうですね。生きるか死ぬかという状況での、レベルの違うところの判断でしょうね。


井野瀬 生の原点というか、何もないときの人間に戻ったみたいな感じですね。



被災直後の子どもたち

中村(安) (中村肇先生は)その日のうちに大学病院のほうに行かれたそうですね。


中村(肇) やっぱり気になりますからね。たまたま知り合いが原付バイクを持ってきてくれましたので、それで駆けつけたんです。


中村(安) あの状況で、原付バイクで走るというのはなかなかのわざですね(笑)。


中村(肇) 小児科医というのは、とくに新生児医療をしていると、普段から24時間体制でパッと出て行くという習性がありますね。まあ、今は年ですからあまり出て行けませんけど、若い頃は必ず行きましたね。


井野瀬 緊急時の準備ができているんですね。


中村(安) 真夜中に電話があったら、普通の人だと、「何やろ?」という感じでしょうが、我々にしてみれば、病院からの呼び出しに決まっているわけですね。


井野瀬 だから、行く術もご存じなんですね。緊急時の対応が平時の活動と背中合わせにある。ある意味では、危機管理が一番できているのは、24時間体制で新生児を扱う小児科ということに...(笑)。


中村(肇) 小児科の中でも新生児をやっている連中は、被災当日の17日の朝から患者を加古川に送ったり、裏六甲に送ったりしています。危機管理は24時間働くことですね(笑)。


中村(安) 直後の子どもの様子というのはいかがでしたか。


中村(肇) 大学病院および私たちの仲間が勤めている病院では、直後にどういう対応をしたかというと、インフルエンザがはやりかける時期だったので、肺炎になったらいけないということで、態勢を整えて、人員も増強して待っていたんです。しかし、全然患者が来ないんです。最初からどうせ建物がだめになっているだろうと勝手に判断して来なかったのか、その辺りはよくわからないですけど。


中村(安) 震災直後には、子どもたちは避難してしまって、市内にはあまり残っていなかったようですね。


中村(肇) 後から聞くとそういうことがあったみたいで、それが原因かなと思ったりもしますね。
 私はどちらかと言えば現場に出て行くよりも、向こうから来られる方を中心に診ていますので、細かい実情はわからないですね。
 PTSDに関しては、震災がらみで心身症的な訴えを起こした子どももいましたが、その数がべらぼうに多いということはないですね。その中に医療を必要とした子どもがどれだけいたのか、正確には把握できていません。
 避難所には、当日の午前中に行ってみたんですが、子どもの数は大変限定されていて、震災直後に子どもたちが、どんなふうに困ったのか、よくわからなかったというのが本音ですね。


中村(安) 大学病院には、慢性の病気を持って通院して来られる方がいらっしゃいますよね。地震後、薬を取りにとか定期検診にとか来られたときの反応はどうでしたか。


中村(肇) 当初はよその地域に行かれて、よそで薬をもらうというケースが多かったようですが、それでも比較的早い時期から、少々交通が不便でも、無理してこちらに来られる方は多かったように思います。
 神経外来で診ている、精神薄弱や脳性麻痺の子どもの中には、地震による恐怖心が強くなって、なだめるのに困るということがあったようです。


中村(安) 発達の遅れた子どもの場合は、災害のショックをもろに受けてしまう。


中村(肇) 感受性がいいのと、それがすぐに表面に出るという2つの理由があるでしょうね。いずれにしろ、知恵遅れの子どもは、非常に過剰な反応をしますね。
 あとは腎臓の疾患、血液疾患の子どもなども診ていますが、とくに目立って訴えがあったということはありませんね。


井野瀬 私は避難所からあぶれたテント村などを訪ねたりして、子どもたちと触れ合ったり、様子を見たりする機会が何度かありましたが、「我慢しているな」という印象を受けました。そしておそらく、その我慢が、次にストレスになって現れてくるんだろうなと思いました。


中村(肇) 六甲アイランド病院の小児科の部長さんに聞いたんですが、仮設住宅で暮らしている子どもの中で、心身症として腹痛を訴える思春期の子が多いらしいですね。あるいは神経性食欲不振症になった子もいます。こういう症状が震災と関連するかもしれないと言ってました。
 それから仮設住宅に住んでいる子どもには、下校拒否症があるそうです。仮設住宅のあの狭いところに大勢の所帯で暮らしていると息が詰まる、学校のほうがのびのびできるということですね。中学生ぐらいになりますと、今の子は自分の部屋でのびのびと暮らしていますから、狭い中での生活というのは大変ですよね。


中村(安) それまで日本の都市社会生活を享受していたわけですから、それが突然不自由な環境になってしまった。その変化は大きいですね。


井野瀬 突然ある時点で、がらっと変わるわけですから、すごいでしょうね。


中村(肇) 本当に周りのサポートが必要な子どもは、我々の知らないところに隠れてしまっている可能性がありますね。たとえば、ご両親、あるいはご両親のどちらかを亡くした子どもが、仮設住宅には入らずに親戚の家に行ってしまっているとかね。
 親を亡くすというのは非常に大きな問題ですから、その子たちをどのようにフォローしていくのか。一番の被害者は親を亡くした子どもたちだと思います。そういう子どもに対する支援が、心身面でも生活面でも必要になってくるのではないでしょうか。
 それから、子ども自身の問題だけではなく、両親の問題も大きいと思いますよ。両親が何とか生活できる見通しを持って、前向きに生きていれば、子ども自身はそう心配しないでもいいと思うんです。ですから、子どもを抱えた両親をサポートしていくことが、そのまま子どもへのサポートにもなっていくんだと思いますね。






※季刊子ども学「子どもたちの震災復興」1996より掲載しています。
筆者プロフィール
中村 肇 (なかむら はじめ)
神戸大学医学部小児科教授。1940年兵庫県生まれ。64年神戸医科大学卒業。69年神戸大学大学院医学研究科修了。70年フランス政府給費留学生として、パリ大学医学部新生児研究センターに学ぶ。89年より現職。専門は小児科学とくに新生児学。新生児の神経発達と脳障害予防のための研究を進めている。現在は災害に強い医療を目指し、情報ネットワークづくりに努力している。

井野瀬 久美惠 (いのせ くみえ)
甲南大学文学部助教授。1958年愛知県生まれ。京都大学文学部英文学科・西洋史学科卒業。同大学院博士課程(西洋史学専攻)修了。専門はイギリス近代史。著書に『子どもたちの大英帝国』(中公新書)、『大英帝国はミュージックホールから』(朝日選書)、『「受験世界史」の忘れ物』(PHP文庫)など。女性や子どもの視点から、イギリス近代史の見直し、とくに大英帝国の調査・研究を進めている。

中村 安秀 (なかむら やすひで)
東京大学医学部小児科講師(外来医長)。1952年和歌山県生まれ。77年東京大学医学部卒業。都立府中病院小児科、東京都三鷹保健所などを経て、86年から2年間インドネシアの地域保健に従事。その後もアフガン難民医療など開発途上国の保健医療活動に積極的に取り組む。子どもの発達、母子保健、国際保健など関心は幅広いが、どこの国に行っても子どもが一番好き。著書に『ハンディキャップをもつ赤ちゃん』(主婦の友社)、『ゆがむ世界ゆがむ地球』(共著、学陽書房)などがある。

(1996年現在)
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