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【ロシア】 ロシア連邦の乳幼児と保育の現状

要旨:

1991年末のソ連解体により新たに成立したロシア連邦(単にロシアとも呼ぶ。通称「現代ロシア」)は「破壊・混乱・低下・減少」の1990年代と「建設・安定・上昇・増加」の2000年代(2000~2009年)を経て、新しい10年に向かい始めている。現代ロシア社会において乳幼児とその保育も大きな変化を経験してきた。その概要を出生率、乳幼児人口、保育改革の各側面から見てみよう。

Keywords;
フレーベル, モンテッソリー, ロシア, 乳幼児, 乳幼児人口, 保育, 保育改革, 出生率, 少子化, 幼稚園, 村知稔三
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1.出生率と死亡率の逆転

ソ連末期の1980年代中頃に高い水準にあった出生率(人口1000人当たりの出生数)が1990年代に急激に低下する一方、死亡率(人口1000人当たりの死亡数)が大幅に上昇した。そのため、戦時ではなく平時に自然増加率がマイナスに転じるという、主要国では長くみられなかった現象が生まれた。その後、2000年代になると、出生率は回復し始めたものの、死亡率は高いままである。

「ロシアの十字架」と呼ばれる出生率と死亡率の逆転現象は、よく指摘される、ソ連からロシアへの体制転換の否定的な影響によるだけでなく、年齢別・性別の人口構成を図示した人口ピラミッドの特徴によっても説明される。すなわち、出産可能な年齢を意味する(人口)再生産年齢にあるとされる15~49歳の女性の人口が、1990年代から2000年代初め頃にかけて増加し、2000年代に「ベビーブーム」が到来する基盤となったのである。

結果として、再生産年齢人口の出生力を示す合計(特殊)出生率は1999年に日本を下回る1.16で最小となったあと上昇に転じ、2009年には1.54まで回復している。人口を維持できる程度の合計出生率を意味する人口置換水準は約2.1であり、それを少し下回るのが緩(かん)少子化、大きく下回るのが超少子化と区分され、その境の値は1.5であるとされる。ロシアの直近の合計出生率はこの境を再び上回ることになった。

その背景のひとつには、全出生数に占める婚外子(=非嫡出子)出生数の割合が1995年の21.1%から2000年の28.0%、2005年の30.0%に上昇したことがある。

一人っ子も増加している。2002年の国勢調査結果によれば、3828万余りの家族のうちで18歳未満の子どもがいるのは54%であり、その内訳を子ども数別にみると、1人が65%、2人が28%、3人以上が7%である。この背景には高い離婚率や狭い住宅事情、社会保障制度の不整備などがある。

2.乳幼児人口の増減

2000年代の出生数の増加を受け、2009年に乳幼児で最も少ないのは6歳児の137万人、最多は0歳児の170万人である。その総数1052万人は総人口1億4190万人の7.4%に当たる(性別では男児が51.5%)。1989年の乳幼児人口は1658万人で、総人口の11.2%を占めていたので、この約20年間の全体的な少子化傾向は明らかである。

年齢の幅を広げ、15歳以下の年少人口を見ると、1989年から2006年にかけて3600万人から2332万人に減り、総人口に占める割合は24.5%から16.3%に低下した。だが、その後はほぼ変わらず、2010年には2285万人、16.1%である。今後は、近年の出生数の増加を反映して、2020年の2594万人、18.3%でピークを迎えたあと、2030年の2285万人、16.4%まで再び減る見通しである。

日本の約60倍という広大な国土を有するロシアでは当然、地域によって子ども数は異なる。そこで、総人口に占める子ども数の割合の高低を地域別にみると、「東高西低」「南高北低」の傾向が認められる。すなわち、都市化がより進み、ロシア人の多い北西部(モスクワ市やペテルブルク市などがある)で子ども数の割合が低い。

民族別にみた子ども数の割合では、ロシア人が最も多いものの、1989年の82.5%から2002年の78.3%に低下しており、人口の流入を考慮しなければ、ロシアからロシア人が減る傾向にある。

3.1990年代の保育改革と2000年代の保育ニーズ

ソ連期(1917~1991年)の保育制度がソ連解体により維持できなくなったあと、1992年の「ロシア連邦教育法」(1996年改正。2009年にも大幅改正)と1995年の「保育施設標準規程」(1997年改正)にもとづいて、新しい保育制度が確立した。その骨格は次のとおりである。

①親の養育権と家庭養育を重視し、それを支える国立・公立・私立(私人立・社会団体立・宗教団体立)の保育施設を「幼稚園」という名称で一元化し、生後2か月から7歳未満の乳幼児を長時間、受け入れる(ほかに3~10歳児の一貫教育の場として「初等学校・幼稚園」があり、所管はともに教育・科学省)。ただ、最長3年間の育児休暇の普及により0歳児が在園するのはまれで、早くても育児休暇のうち有給の部分が終わる生後1歳半から入園することが多い(2008年の園児総数の84%が3歳以上)。なお、就学年齢を6歳半とするか7歳とするかは、子どもの成長の様子などを見て、親が選択することになっている。多くは6歳半で就学し、11年間の義務教育を受ける(12年間への延長を模索中)。

②幼稚園のタイプとして一般幼稚園・障害児幼稚園・健康幼稚園・統合幼稚園・特別発達幼稚園・児童発達センターなどをおく。そこでさまざまな保育プログラム(日本の幼稚園教育要領や保育所保育指針に相当)を実施するにあたり、保育者の裁量を尊重する。

③幼稚園と親の関係に政府は関与せず、園の宗教的中立性・政治的中立性を保障する。

これは、脱国家化・市場主義化・自由化・多様化をキーワードにして、行政機関の保育条件整備の責任を軽減しつつ、保育界に市場経済原理の導入を図ろうとするものであった。

こうした保育改革や出生減などのため、幼稚園と園児の数は1990年代に大きく減り、その初めと終わりで園数は8万8000から5万4000に、園児数は900万人から422万人になった。とくに農村部での減少は著しく、この10年間に4万1000園、215万人から2万4000園、85万人へと推移した。この傾向は2000年代になって少し変わり、園数の減少傾向は緩やかながら続いている一方で、園児数は増加に転じた。すなわち、園数は1999年からさらに8600減り、2010年には4万5000になった。園児数は2001年に425万人で2000年代の最小になったあと増え始め、2010年には539万人と、1990年代中頃の水準まで回復している。

園数が微減し、園児数が増えているので、園児の現員を定員で割った充足率は上昇し、2010年には107となり、園内はやや過密な状況にある。また、園児数を幼児総数で割った就園率も1985年の68%から1998年の54%に急落したあと、2009年には58%まで回復している。

注目すべきは、未就園児の半数近くの親が「できれば就園させたい」と考えている一方、高い保育料や幼稚園の不足がネックになって、そうできない場合が多いことである。そのため、未就園で入園の必要な幼児(日本の待機児童に相当)は2009年に全国で172万人になり、園児総数の3分の1にのぼっている。

また、上でみた①や③を反映して、入園までの手続きが親と幼稚園の間でやりとりされるという直接契約制が取り入れられた。その結果、都市部の親は園探しに走り回り、農村部の親は通える範囲に園が少なく、保育を受ける権利(保育権)は絵に描いた餅になりつつある。そのなかで親の信頼を改めて集めているのは、存続した園のうちで多数を占め、人材・施設・設備ともに蓄積をもつ国立の幼稚園である。

ここで着目しているのは、園の設置・運営形態ではなく、その公的性格である。人生の初期を、生まれた家庭の属性に強く規定されることなく、社会の到達度にふさしい保育環境のなかで過ごせることが必要だからである。そのためには、保育行政による実態にもとづいた中・長期的な政策の立案と、それを促し、内実あるものとする親や保育者らの団体による運動が求められる。

なお、上の②でみた幼稚園のタイプ別で最も多いのは一般幼稚園で、2010年には園児の52%がそこに通っている。その次が、一般・障害児・健康の各幼稚園の機能を合わせもった統合幼稚園で、園児数の26%を占める。これらに比べると数は少ないが、2000年代に一貫して増えているのが一般幼稚園を充実させた児童発達センターで、園児数の12%に当たる。

保育プログラムの多様化はかなり進んでおり、モンテッソーリ方式やフレーベル方式を含む相当数のプログラムが1990年代から続々と発表されている。しかも、その採択は園単位だけでなくクラス単位でも行なわれるので、個々の保育者の力量とそれを支える養成や研修の体制が問われている。


【追記】

本文で述べられなかった問題や明記できなかった出典については次の拙稿を参照。「現代ロシアの乳幼児の生活と保育」『ユーラシア研究』第43号(2010年);「現代ロシア社会における子どもの養育をめぐる諸問題」『青山学院女子短期大学紀要』第64集(同年);「世紀転換期のロシアにおける『革命』と子ども」『(青山学院女子短期大学)総合文化研究所年報』第18号(2011年)。

筆者プロフィール
村知 稔三(むらち としみ)

岐阜県で生まれ、高校を終えたあと、名古屋市内の大学・大学院に進む。そこに籍がある間に埼玉県北部の保育園で0~3歳児と暮らしを共にしたことが拙い保育学研究のスタートとなる。その後、長崎市内の大学で保育者と教師の養成に従事する。2006年度からは青山学院女子短大で保育者養成にたずさわっている。この間に、札幌市(1990、2008、2009、2010年)、東京都国立市(2005年)、ロシアのモスクワ市(1994、1996、1998年)、サンクトペテルブルク市(1996、2003、2004年)、ヴャトカ市(1996年)などで研究の機会を得る。
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