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所長ブログ

粗野な運動?

榊原 洋一(CRN所長、お茶の水女子大学名誉教授、
ベネッセ教育総合研究所常任顧問)

2018年5月11日掲載
日本は明治以降、西洋から様々な事物を取り入れて、急速に欧米に追いつこうとしました。物事と同時に、新しい言葉や概念も旺盛に取り入れました。その際に、新たな日本語を作る必要がありました。Philosophy を哲学、science を科学などの新しい言葉で表し、西洋の言語に頼らなくても、日本語で記述することができるようになったのです。

医学分野でも、多くの西洋の言葉や概念について、新たな日本語を創作したり、意訳をすることが行われました。しかしその中に、とんでもない誤訳もありました。

日本語として定着してしまえば、元の言葉との関係なんてどうでもいい、という考え方もあると思いますが、使っているとどうしても気になります。

いくつかそうした例を挙げてみたいと思います。

まず「理学診断」「理学療法」「理学診療」の「理学」です。私たち医師が、臨床医学で最初に学ぶのは「理学診断法」です。視診、聴診、触診、血圧測定などは、理学診断学の初歩になります。私も医学生だったころ、どうして「理学」というのかなと思って調べたことがあります。その結果、先人が大きな初歩的翻訳ミスをおかした結果であることが分かりました。理学診断、理学療法、は英語では、physical diagnosis, physical therapy となります。なぜ誤訳が生じたかというと、physical には「物理学の」という意味と「身体の」という2つの異なった意味があるからです。正しくは、physical diagnosis, physical therapy は、身体診断、身体療法と訳されるべきだったのです。でも「理学」にはあまり悪い印象はありませんので、今さら変更する必要はないかもしれません。

問題は、誤訳のために、悪い印象の日本語に翻訳されてしまった医学用語です。人の随意運動は大きく粗大運動と微細運動に分類されると教科書には書いてあります。寝返り、歩行、跳躍(ジャンプ)は、「粗大運動」ですし、指先の細かな運動は「微細運動」となります。粗大、微細の英語の原語はそれぞれ、gross, fineですが、この gross を粗大と誤訳したまま定着してしまったのです。英和辞書をひくと、gross には、全体、全身という意味と、粗野な、粗悪なという異なった意味があるのです。Gross movement という「粗大運動」の原語は、正しくは「全身運動」と訳されるべきだったのです。「粗大」という言葉に対応する英語を和英辞書で引くと、rough とか coarse という粗野、野卑といった印象の良くない和訳がでてくるのです。日常生活で粗大という言葉は、ほぼ粗大ゴミ以外にはつかわれません。もう定着してしまった粗大運動ですが、それを「全身運動」に変更する全国運動を始めたい位ですね(笑)。

私がなにか変だよ、と感じるところの多い発達障害の分野でも誤訳にお目にかかります。以前のブログでもご紹介した、精神疾患の診断と統計マニュアル(DSM)の日本語版にも、明らかな誤訳がありました。ADHDの診断基準の中に、「しばしば日常生活を忘れてしまう」という項目がありました。日常生活を忘れる、とはどういう意味だろうと疑問に思った私は、英語の原文を読んでみてびっくりしました。原文は Often forgetful in daily activities. で、翻訳すると「しばしば日常生活の中で忘れっぽい」となります(現在はそのように修正されています)。定評のある医学出版社から出されているDSMの翻訳書でしたので、よもや誤訳はないだろうと思っていたのですが、このような初歩的な間違いがあるのです。

筆者プロフィール

sakakihara_2013.jpg榊原 洋一 (さかきはら・よういち)

医学博士。CRN所長。お茶の水女子大学名誉教授。ベネッセ教育総合研究所常任顧問。日本子ども学会理事長。専門は小児神経学、発達神経学特に注意欠陥多動性障害、アスペルガー症候群などの発達障害の臨床と脳科学。趣味は登山、音楽鑑賞、二男一女の父。

主な著書:「オムツをしたサル」(講談社)、「集中できない子どもたち」(小学館)、「多動性障害児」(講談社+α新書)、「アスペルガー症候群と学習障害」(講談社+α新書)、「ADHDの医学」(学研)、「はじめての育児百科」(小学館)、「Dr.サカキハラのADHDの医学」(学研)、「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期」(講談社+α新書)など。
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