以前、なぜ勉強することが必要か、子ども達に短いメッセージを書いてくれと頼まれたことがあります。私は「知識があれば、それだけ人生の選択肢が増える」といったようなメッセージを書いたことを覚えています。
現在盛んに、従来の一斉授業ではなく、アクティブラーニングだとか、反転学習といった学習の工夫がなされているのも、多くの子どもが勉強することへの動機付けがうまく行かないという背景があると思います。
幼少の子どもであれば、どうして勉強するの、という問いへの回答は比較的容易です。以前本ブログでも紹介した自尊感情(自己肯定感)に絡めて説明できるからです。「勉強してくれると、お母さん(お父さん)はうれしいな」とか、「一生懸命勉強して良い点を取ると、皆からすごいなあ、って言われるよ」といった説明で、多くの子どもは納得します。
しかし、子どもが大きくなって学校での授業が難しくなり、宿題やテストといった精神的ストレスが大きくなってくると、自尊感情を喚起する方法はあまり効果がありません。ましてや、義務教育だからとか、子どもの本分は勉強することだ、といった決まりきった説明では子ども自身が納得しなくなります。
そんな時に使われる「勉強して教養がつけば、きっと将来いろいろ役に立つことがあるよ」という常套句があります。少し機転のきく子どもなら「教養ってなに」とか「将来っていつ?」と聞いて、大人を困らせているところです。恥ずかしながら告白すると、私はどうやらずっとこの常套句を信じて勉強してきたのではないかと思います。正直、中学高校のころは、教養の高い人の代名詞であるイギリスの紳士(ジェントルマン)のようになりたいと、まじめに(?)思っていました。
でも基本的に地主階級であり、生活のために働く必要がないジェントルマン(在郷紳士)が、なぜ教養のある人の代名詞になっているのか、これまで分からず仕舞いでした。
ところが最近、1800年代初頭の有名な女流作家ジェイン・オースティンの「マンスフィールド・パーク」という小説を読んでいて、ジェントルマン(そしてレディー)には教養がなければならない理由の一端が分かったような気がしました。
オースティンの描く登場人物の会話は、彼女の実際にあった会話の膨大なメモに基づいて書かれているとされていますので、事実をかなり正確に反映しています。
さて、働く必要のない地主階級の人々は、領地の管理や議員などの名誉職の仕事以外は、お互いに屋敷を訪問したりして有り余る時間を過ごしていました。知人の屋敷を訪問すると、数週間から時には数ヶ月逗留するのが普通だったようです。男性は狩猟をし、女性は編み物をしながら世間話、そして一堂に会してダンスをしたり、楽器演奏を披露したりして過ごしました。
そのような有り余る時間の中では、豊富な話題を提供したり、相手の話にあわせるだけの様々な知識や、皆に披露できる歌や楽器演奏、詩の暗唱などが、ジェントルマンやレディーとして振る舞うために必要不可欠だったのです。
「マンスフィールド・パーク」の中に、当時のレディーの候補者である幼い姉妹の会話がでてきます。田舎から来た従姉妹の女の子(「マンスフィールド・パーク」の主人公のファニー)のことを母親にむかってこんな風に話しています。
「ねえママ、ちょっと考えてもみて、私の従姉妹のファニーは、ヨーロッパの地図を合わせることもできないのよ。それに、ロシアの大きな川の名前もいえないし、小アジアといってもどうだかわからないの。それにクレヨンと水溶性色鉛筆の区別もつかないのよ」「ほんとうにこんな馬鹿な子がいるなんて聞いたことがある?」
この田舎からでてきた従姉妹のファニーが、すばらしい女性に育ってゆく過程が「マンスフィールド・パーク」のストーリーです。
さて、ファニーのことは置いておくとして、このエピソードが語っていることはなんでしょうか。
私の勝手な解釈かもしれませんが、私がかつて憧れたジェントルマン(あるいはレディー)の教養とは、結局当時の地主層にとって現実生活で必要な知識だったということではないでしょうか。中学高校時代の私は、受験勉強などで暗記する知識の切れ端(世界の地図、川の名前、歴史事実など)は、「真の教養」とは全く違うものであると信じていました。でも、少なくとも私が憧れたイギリスのジェントルマンの「教養」は、私が受験勉強で覚えた詰め込み知識とそんなに変わらなかったのではないか、と今になって思います。社交界でうまく振る舞うことも、試験に合格することも現実生活に必要な業であるからです。
皆さんは、私のやや偏った「教養」論をどう思われるでしょうか。
幼少の子どもであれば、どうして勉強するの、という問いへの回答は比較的容易です。以前本ブログでも紹介した自尊感情(自己肯定感)に絡めて説明できるからです。「勉強してくれると、お母さん(お父さん)はうれしいな」とか、「一生懸命勉強して良い点を取ると、皆からすごいなあ、って言われるよ」といった説明で、多くの子どもは納得します。
しかし、子どもが大きくなって学校での授業が難しくなり、宿題やテストといった精神的ストレスが大きくなってくると、自尊感情を喚起する方法はあまり効果がありません。ましてや、義務教育だからとか、子どもの本分は勉強することだ、といった決まりきった説明では子ども自身が納得しなくなります。
そんな時に使われる「勉強して教養がつけば、きっと将来いろいろ役に立つことがあるよ」という常套句があります。少し機転のきく子どもなら「教養ってなに」とか「将来っていつ?」と聞いて、大人を困らせているところです。恥ずかしながら告白すると、私はどうやらずっとこの常套句を信じて勉強してきたのではないかと思います。正直、中学高校のころは、教養の高い人の代名詞であるイギリスの紳士(ジェントルマン)のようになりたいと、まじめに(?)思っていました。
でも基本的に地主階級であり、生活のために働く必要がないジェントルマン(在郷紳士)が、なぜ教養のある人の代名詞になっているのか、これまで分からず仕舞いでした。
ところが最近、1800年代初頭の有名な女流作家ジェイン・オースティンの「マンスフィールド・パーク」という小説を読んでいて、ジェントルマン(そしてレディー)には教養がなければならない理由の一端が分かったような気がしました。
オースティンの描く登場人物の会話は、彼女の実際にあった会話の膨大なメモに基づいて書かれているとされていますので、事実をかなり正確に反映しています。
さて、働く必要のない地主階級の人々は、領地の管理や議員などの名誉職の仕事以外は、お互いに屋敷を訪問したりして有り余る時間を過ごしていました。知人の屋敷を訪問すると、数週間から時には数ヶ月逗留するのが普通だったようです。男性は狩猟をし、女性は編み物をしながら世間話、そして一堂に会してダンスをしたり、楽器演奏を披露したりして過ごしました。
そのような有り余る時間の中では、豊富な話題を提供したり、相手の話にあわせるだけの様々な知識や、皆に披露できる歌や楽器演奏、詩の暗唱などが、ジェントルマンやレディーとして振る舞うために必要不可欠だったのです。
「マンスフィールド・パーク」の中に、当時のレディーの候補者である幼い姉妹の会話がでてきます。田舎から来た従姉妹の女の子(「マンスフィールド・パーク」の主人公のファニー)のことを母親にむかってこんな風に話しています。
「ねえママ、ちょっと考えてもみて、私の従姉妹のファニーは、ヨーロッパの地図を合わせることもできないのよ。それに、ロシアの大きな川の名前もいえないし、小アジアといってもどうだかわからないの。それにクレヨンと水溶性色鉛筆の区別もつかないのよ」「ほんとうにこんな馬鹿な子がいるなんて聞いたことがある?」
この田舎からでてきた従姉妹のファニーが、すばらしい女性に育ってゆく過程が「マンスフィールド・パーク」のストーリーです。
さて、ファニーのことは置いておくとして、このエピソードが語っていることはなんでしょうか。
私の勝手な解釈かもしれませんが、私がかつて憧れたジェントルマン(あるいはレディー)の教養とは、結局当時の地主層にとって現実生活で必要な知識だったということではないでしょうか。中学高校時代の私は、受験勉強などで暗記する知識の切れ端(世界の地図、川の名前、歴史事実など)は、「真の教養」とは全く違うものであると信じていました。でも、少なくとも私が憧れたイギリスのジェントルマンの「教養」は、私が受験勉強で覚えた詰め込み知識とそんなに変わらなかったのではないか、と今になって思います。社交界でうまく振る舞うことも、試験に合格することも現実生活に必要な業であるからです。
皆さんは、私のやや偏った「教養」論をどう思われるでしょうか。